今日は北京議定書が調印された日だ。同議定書の正式名称は「北清事変に関する最終議定書」という。
明治34年(1901年)9月7日に北京で調印された、北清事変(義和団の乱)で戦った清と日本など11カ国との間の条約。
日本は戦勝国となった。
清は莫大な賠償金を課せられた上に、列国に駐兵権を認めることとなり、滅亡した。
明治30年(1897年)、山東省でドイツ人宣教師が殺害される事件が起きると、ドイツはこれを機に山東省一帯に進出。翌年には、膠州湾を租借した。
山東省一帯は排外的・反キリスト教感情が強い地域であったが、更に拍車がかかった。
この様な状況のなか山東省一帯では、宗教的秘密結社「義和団」が勢力を拡大していった。
義和団は仏教の一派である白蓮教の流れをくみ、義和拳という拳法によって刀や槍にも傷つけられない神力を得ることができると説いていた。
義和団は山東省を中心に、キリスト教の教会や信者を襲い、暴動を起こし、西欧列強と鋭く対峙するようになっていった。
明治32年(1899年)末、清(清朝)が義和団の弾圧を開始した。これに多くの民衆が反発し、義和団は山東省以外でも勢力を急拡大した。
明治33年(1900年)6月10日、数万人(20万人との説もあり)の義和団のメンバーにより、北京は占領させた。
義和団のメンバーは、日本やドイツの外交官したり、教会を襲撃したりした。
清の実権を握っていた西太后は義和団を弾圧していたが、それが不可能とわかると一転、義和団を支持。
明治33年(1900年)6月10日、清は日本など8カ国に対し宣戦を布告した。
宣戦布告を受けた英国、米国、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、ロシア、日本の8カ国は、連合軍を組み交戦した。
連合軍の戦力は最大時で7万人強。最も多くの派兵をおこなったのは日本とロシアだった。
一方、清・義和団の兵力は20万人を超えていたが、軍隊と呼べるものではなかった。近代兵器を活用できず、暴発などで自滅した例も有った。義和団に至っては、銃器を持つ者は少なく、剣や槍が主な武装だった。
7月14日、連合軍は天津を占領。
8月14日には北京を総攻撃し、翌日には陥落させた。実権を握っていた西太后と光緒帝、北京から逃亡した。
8月20日、清は姿勢は180度転換し、義和団を反乱軍と認定した。既に、義和団に反撃する力は残っていなかった。
明治34年(1901年)9月7日、清と日本など11カ国との間で「北京議定書」が調印された。
清は戦勝国などに対し賠償金4億5000万両を支払うこととなった。これは凄まじい金額で、当時の清の国家予算の5倍ほど。
その他にも...
明治45年(1912年)、清は滅亡した。
義和団のメンバーは排外主義をあげ、多くの外国人を殺害・迫害した。しかし、国益を大きく損ねる結果となった。
清の権力者も、自分たちの都合により、義和団を弾圧したり持ち上げたりした。
彼等のような日本人を増やしてはいけない。