素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

昭和天皇85歳「戦争責任のことをいわれる」、辛いご心情を侍従に

昭和天皇が85歳だった昭和62年(1987年)4月、戦争責任について苦悩を漏らしていたことが、元侍従(じじゅう)の故小林忍氏の日記より分かった。

日記は共同通信が22日までに入手した。

昭和天皇のご発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と書かれている。

 

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まず、「戦争責任」という言葉自体がおかしい。

これは戦勝国が、敗戦国に対して、力により押しつれた概念でしかない。

もし戦争責任を問うなら、日本より支那共産党や米国、ソ連の責任を問うべきだ。

 

大東亜戦争の発端となった、昭和12年(1937年)7月の盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)や通州事件(つうしゅうじけん)は、支那共産党の策略により発生した。これにより日本は戦争の泥沼にはまっていく。

通州事件については、その存在すら知らない人も多い。

 

日米戦争が発生したのはABCD包囲網のせいだ。

完全に石油の輸入を止められていまった。

植民地同様になるか、戦争、若しくは餓死の3つしか選択肢はなかった。

日本をそこまで追い込んだのは米国だ。米国が対日強硬路線に傾いていったのは、同国内でコミンテルンの力が強くなったのが最大の理由と思われる。

 

更に、支那共産党に援助したり、日本に無理難題を押し付けた『ハル・ノート』の作成にも、コミンテルンが大きく関与している。

 

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 泉水谷慶彦のブログ

 

昭和20年(1945年)9月27日、マッカーサー昭和天皇は2人だけで会見した。その会見内容については、今だに日米政府は公表していない。

マッカーサーの回想記によると、昭和天皇は以下のように仰せになられたという。

 

「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」

「しかしながら、罪なき8,000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」

 

マッカーサーは感激し、日本最上の紳士と評価して、その後、非常に好意的な態度で昭和天皇と接した。

更に、マッカーサーは米国の議会で、「日本の戦争は自衛戦争だった」とも証言している。

 

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昭和天皇は、大東亜戦争後の昭和21~29年の9年間にわたり、全国巡幸をなされた。

そして、各地で盛大な歓迎をお受けになる。

特に広島で。

これが民意である。