素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

【皇紀】2678年8月31日

今日は大正節だ。

大正天皇(第123代)の誕生日である。

 

大東亜戦争終結以前、明治天皇の誕生日である11月3日は「明治節」だった。

しかし、昭和21年(1946年)11月3日に日本国憲法が公布されたため、この憲法が平和と文化を重視しているという理由から、昭和23年(1948年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められた。意味不明である。


昭和になって以降、大正天皇の誕生日(8月31日)が「大正節」となることはなかった。

大正時代、明治天皇の誕生日(11月3日)は「明治節」では無かったため、その先例を踏襲したものと思われる。

明治節」が祝日になったのは昭和2年からだ。

 

自民党には、11月3日を「文化の日」から「明治の日(明治節)」に変えようという議員が多数いる。

「大正の日(大正節)」も忘れないで頂きたいものだ。

大正の日(大正節)が祝祭日として制定されたことは今までない。

臣民として非常に遺憾である。

 

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明治33年(1900年)、結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王、出典:Wikipedia

 

明治12年(1879年)8月31日、後に大正天皇となられる明宮嘉仁(はるのみや よしひと)親王は、明治天皇の第三皇子としてお誕生になられる。

生母は典侍(ないしのすけ)柳原愛子である。典侍とは、皇帝や王が住んでいる場所に仕える女性の役職である。

嘉仁親王は生来病弱であったため、無事に育つか危ぶまれるほどだった。

 

嘉仁親王は孤独で寂しい幼少期をお過ごしになられる。

明治天皇と複数の側室との間に誕生した弟宮の全員と妹宮のほとんどが薨去(こうきょ)しており、周囲に年の近い子供が少なかった。

 

明治20年(1887年)9月、嘉仁親王学習院に入学なされる。同世代の子供と接する機会があるため、嘉仁親王にとっては嬉しい出来事だったという。

ちなみに、入学祝に伊藤博文から送られたのがランドセルの始まりであるという逸話がある。

嘉仁親王は健康に優れず学業に集中できなかったこと、学習院の厳格な規則に馴染めなかったことなどから、留年することもあった。

この状況を見かねた伊藤博文は、明治天皇に対して、養育係りに有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう)を推挙する。

威仁親王は、明治32年(1899年)から明治36年1903年)まで、嘉仁親王の養育係りを務めることとなる。

時には兄、時には友として接する威仁親王を、嘉仁親王は本物の兄のごとくお慕いになられた。

 

明治33年(1900年)5月10日、嘉仁親王九条節子(くじょう さだこ)と結婚なされた。

嘉仁親王20歳、節子は15歳であった。

寂しい幼少時代を過ごした親王にとって、結婚は非常に嬉しい出来事であった。

また、近年の天皇では始めて一夫一妻を貫いた。

子煩悩で家庭的な一面があった。

4人の皇子に恵まれ、兄弟は終生親密だった。

 

結婚後、嘉仁親王の体調は良好に向かわれる。

養育係り・威仁親王と妻・節子により、精神的に安定されたためだ。

 

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明治37年(1904年)、迪宮と淳宮を可愛がる皇太子嘉仁親王。左端は侍従

出典:Wikipedia

 

明治45年/大正元年(1912年)7月30日、嘉仁親王明治天皇崩御を受け、第123代天皇大正天皇」とおなりになられる。

元号は「大正」と改元される。

 

天皇とおなりになられた後は、全く自由の許されない超過密スケジュールで、極度に多忙な日々をお送りになられることとなる。

大正2年(1913年)5月には、肺炎で一時重体に陥り、全快まで約1ヶ月を要された。

同年7月には、兄として慕っていた威仁親王薨去してしまう。

大正6年(1917年)頃から、大正天皇は公務を病欠することが多くおなりになられる。

更に、大正8年(1917年)の年末には、食事を摂ることもできなくなるほど病状は悪化なされてしまう。

 

当時、ロシア帝国ドイツ帝国などの皇帝が次々と没落していった。

このため、大日本帝国と皇室を守るためには、皇太子・裕仁親王(ひろひと しんのう)が摂政に就任する必要があると考えられるようになる。

そして、大正10年(1921年)11月25日、皇太子・裕仁親王摂政のおなりになる。

同時に宮内省から、大正天皇の出生以来の病歴も発表される。このため、「病弱な天皇」として一般に認識されることになってしまう。

大正天皇が政務に復帰なされることは無かった。

 

その後、大正15年(1926年)12月25日、静養中の葉山御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子の手を握ったまま、心臓麻痺により崩御なされる。

宝算47。

臨終の床に生母を呼んだのは妻・貞明皇后(ていめいこうごう)の配慮だった。 

 

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大正天皇と近しい立場にあった原敬は、「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」人物と日記に記している。

 

大正天皇は皇太子時代には体調が良好であらせられた。

しかし、天皇に即位なされてからは体調を崩され、ご病気となられた。

 

天皇の職務は非常に過酷である。

プライベートなどない。

大正天皇のことを想う日が、1年1回くらい日本人にあっても良いのではないのだろうか?