素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

【皇紀】2678年11月10日

今日は北海道拓殖銀行(ほっかいどうたくしょくぎんこう)、通称「たくぎん」が経営破綻した日だ。

 

北海道拓殖銀行は、始めて経営破綻した都市銀行である。

平成10年(1998年)11月10日のことだ。

当時、都市銀行の数は13行もあった。

そして、「銀行は潰れない」と多くの人が信じていたため、社会に大きな衝撃を与えた。「拓銀ショック」とも呼ばれた。

 

都市銀行とは、普通銀行のなかで、東京・大阪などの大都市に本店を構え、広域展開している日本の銀行である。

ちなみに、地方銀行とは、「全国地方銀行協会」に所属している銀行のことである。「第一地方銀行」というのは俗称で、正式なものではない。

第二地方銀行とは、「第二地方銀行協会」に所属している銀行のことである。

 

平成30年11月10日現在、都市銀行は、みずほ銀行三井住友銀行 ・三菱UFJ銀行 ・りそな銀行の4行しかない。(定義によっては5行)

地方銀行は64行、第二地方銀行は40行である。

情報元:銀行免許一覧 | 金融庁

 

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出典:Wikipedia

 

明治33年(1900年)2月16日、北海道拓殖銀行は「北海道拓殖銀行法」という法律に基づく、特殊銀行として設立された。

資本金は300万円、工員は26名だった。

 

特殊銀行の特徴は以下の二点である。

①特定の法律を根拠法としているが、商法に基づく株式会社である
②債券(金融債)を発行して資金を調達し、長期の融資や投資を行う

 

日本政府が北海道拓殖銀行をつくったのは、もちろん、北海道を発展させるためである。

当時、道内にも民間銀行はあったのだが、規模は小さく、水産業や商業への融資にとどまっていた。また、高利貸しが中心だった地域もあった。

このため、農業や工業などを強化するために、「長期融資」を目的とした銀行が必要だったのだ。

 

北海道拓殖銀行は、北海道の発展に貢献した。農業を中心に、道内産業に長期・低利の融資を行った。しかし、工業や商業への融資額は少なかった。

 

昭和14年(1939年)、北海道拓殖銀行法が改正された。それまで債券発行による資金調達と長期金融が中心だったのを、広く一般から預金を取り扱った上で短期金融の上限も撤廃された。つまり、普通銀行と同じように業務をできるようになったのだ。

これを転機に、北海道拓殖銀行は急激に規模を拡大していく。

 

数年後、北海道拓殖銀行に最大のピンチがおとずれる。

昭和21年(1946年)、GHQにより一時業務停止を宣告されてしまう。GHQは特殊銀行を潰す政策を行う。

しかし、北海道拓殖銀行は負けなかった。

普通銀行の業務も行っていたため、そのまま存続することができた。

 

昭和23年(1948年)には、預金残高が100億円を突破する。

昭和24年(1949年)には、政府保有株式を放出し、東京証券取引所証券コード:8312)に上場する。

昭和25年(1950年)には、普通銀行業務を継承し、正式に民間銀行として再発足する。

そして、昭和30年(1955年)には、都市銀行の仲間入りを果たす。

その後、戦時中に着手した産炭や製紙、製糖など企業が成長し、融資も増え、営業基盤は拡大していく。

 

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北海道拓殖銀行本店、出典:Wikipedia

 

北海道拓殖銀行が経営破綻したのは、バブル期に間違った経営判断をしたからである。

 

昭和60年(1985年)頃から、バブル景気により、東京や大阪、名古屋などの三大都市圏を中心に地価が高騰し、全国へ波及していった。

多くの銀行は不動産の融資に力を入れ、高収益をあげるようになっていた。

 

北海道拓殖銀行も、昭和63年(1988年)の頃より、不動産の融資が本格化させた。

しかし、この決定は、他の銀行より数年遅れていた。

このため、他の銀行と比べると業績が伸びず、地方銀行にも追い上げられていた。

北海道拓殖銀行は焦り、拡大路線をとってしまう。

融資額は通常、土地評価額の70%程度までしか行わない。しかし、北海道拓殖銀行は、土地評価額の120%~130%程度の融資をしてしまう。

この時、過剰融資をした銀行は、潰れたり、大火傷したりしている。

 

北海道拓殖銀行の内部には、この拡大路線を危ぶむ人間も多かった。

この頃、拡大路線を決定した鈴木茂会長、不動産開発支援の陣頭指揮をとった佐藤安彦副頭取、「たくぎん21世紀ビジョン」をスタートした時の中心人物の海道弘司常務の3人が、事実上の人事権を握ることになる。

このため、他の人間が経営に口を出せなくなってしまう。

 

平成7年(1995年)には、開業以来の赤字決済になってしまう。

その後、株価は安値を更新し続け、預金の解約も相次ぐこととなる。

北海道拓殖銀行の経営陣は、有効な対策を打つことができず、傷口は広がっていく。

そして、平成10年(1998年)11月10日、資金繰りの目処が立たず、経営破綻を発表する。

 

北海道拓殖銀行の破綻は、私にとっては衝撃的な出来事だった。

そして、以下の2つを肝に銘じるようなった。

①調子に乗り過ぎるな!

②他人の意見も聞き、物事は客観的に判断しろ!