今日は「在日朝鮮人の帰還事業」で、初の帰国船が新潟港を出港した日だ。
在日朝鮮人の帰還事業とは、昭和34年(1959年)から昭和59年(1984年)にかけて行われた、在日朝鮮人とその家族の、日本から北朝鮮への集団的な移住事業のことである。ただし、事業が行われていた期間に関しては、様々な見解がある。
この事業により、93,340人が船で北朝鮮へ渡った。うち、日本国籍を持つ配偶者や子供は、少なくとも 6,679人はいた。
当時も今と同様、日本と北朝鮮に国交はなかった。
そのため、事業は日朝両国の赤十字(日本赤十字社と朝鮮赤十字会)を中心に行われた。日朝両政府は了承済だ。
昭和21年(1946年)ころの金日成、出典:Wikipedia
「在日朝鮮人の帰還事業」のことだけ話しても、意味がわからない方も多いだろう。
超簡単に、これまでの日本と北朝鮮の経緯について話そう。
明治43年(1910年)8月29日、日本は大韓帝国を併合する。これが「日韓併合」である。日韓併合は「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて行われたものである。もちろん、国際法上合法である。
大韓帝国とは、現在の韓国と北朝鮮の領土に、明治30年(1897年)から明治43年(1910年)まで存在した国である。
昭和12年(1937年)7月7日、
昭和20年(1945年)8月9日、ソ連は「日ソ中立条約」を破り、日本に宣戦布告する。そして、朝鮮半島へ進軍を開始する。この時、ソ連が支配したのが38度線より北である。
昭和23年(1948年)9月9日、北朝鮮(正式名「朝鮮民主主義人民共和国」)が建国する。当時の北朝鮮はソ連の傀儡国家であった。トップの首相には
昭和25年(1950年)6月25日、北朝鮮軍は38度線を越え、南側に侵攻する。朝鮮戦争の始まりである。
昭和28年(1953年)7月27日、休戦協定が発効され、朝鮮半島は現在と同じ状態になる。休戦協定なので、朝鮮戦争は今も続いている。
こうして、戦前・戦中から日本で暮らしていた北朝鮮出身者は、戻ることができなくなってしまった。
日本を出港する帰還船、出典:Wikipedia
昭和31年(1956年)2月27日、日朝両国の赤十字(日本赤十字社と朝鮮赤十字会)が平壌で共同コミュニケに調印する。これにより、赤十字社が中心的な役割を果たすことになる。
日本政府はこの頃から、在日朝鮮人の大量帰国を検討し始める。在日朝鮮人への生活保護費の増大、高い犯罪率、左翼運動への加担などがその理由と言われている。
昭和33年(1958年)11月17日、「在日朝鮮人帰国協力会」の結成総会が衆院第一議員会館で開催される。政治も「在日朝鮮人の帰還事業」を後押しするようになる。
昭和34年(1959年)9月7日、週刊『朝鮮総連』に「地上の楽園」という言葉が初めて使われる。以後、この「地上の楽園」という言葉がマスコミに頻繁に使われるようになる。
昭和34年(1959年)12月14日、第1次帰国船が新潟港から北朝鮮に向けて出港する。本格的な「在日朝鮮人の帰還事業」の開始である。ただし、この前にも赤十字の助けにより、北朝鮮に渡った人はいる。
この頃から、日本国内で韓国人テロ工作員の活動が活発化する。日本国内の世論は北朝鮮に肯定的で、韓国には否定的なものになっていく。読売新聞や産経新聞までも、北朝鮮には好意的だった。このため、大部分の日本人は「在日朝鮮人の帰還事業」に好意的だった。そして、帰還事業は続けられる。
昭和42年(1967年)12月22日、第155次の帰還船を最後に事業は中断される。
そして再開されないまま、昭和59年(1984年)に帰還事業は終了する。
帰国手続きをする在日朝鮮人、原典:日本政府「写真公報(1959年10月15日号)」
現在、日本に住んでいる人で、北朝鮮で暮らしたいと考える人は皆無だろう。
その理由は、当時の新聞が「北朝鮮は良い所」という報道をしきりにやっていたからだ。当時の朝日新聞には、以下のような記事がある。
「希望者ふえる一方」
帰還希望者がふえたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想をつかしながらも、二度と戻れぬ日本を去って"未知の故国"へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎ぶりや、完備した受け入れ態勢、目覚ましい復興ぶり、などが報道され、さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏みきったようだ。
当時の新聞は、今より遥かに国民から信頼されていた。その新聞が全紙そろって、北朝鮮賛美報道をしていたのだ。朝日新聞が最も煽っていたが、読売新聞や産経新聞もやっていた。
完全な虚報である。
証拠のないものを信じてはならないという良い例である。