今日はワシントン会議が閉幕した日だ。
同時に、ワシントン海軍軍縮条約と九か国条約が締結された日でもある。
ワシントン会議とは、大正10年(1921年)11月11日~大正11年(1922年)2月6日に、米国のワシントンD.C.で開かれた国際会議である。
日本・米国・英国・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加した。
米国が主催した初の国際会議であり、史上初の軍縮会議である。
主な決議は、四カ国条約・ワシントン海軍軍縮条約・九カ国条約である。
ワシントン会議の様子、出典: 日本の歴史についてよく分かるサイト
四カ国条約とは、大正10年(1921年)12月13日に締結された、太平洋の島々に関する条約である。
日本・米国・英国・フランスが署名した。
各国が太平洋方面にもつ属地や領土の尊重、問題が発生した場合の平和的な処理の仕方について定められている。
この条約により、日英同盟が解消された。
ワシントン海軍軍縮条約とは、大正11年(1922年)2月6日に締結された、海軍の軍備などを制限する条約である。
日本・米国・英国・フランス・イタリアが署名した。
主な内容は、戦艦と空母の保有制限である。
戦艦の合計排水量は、米英が50万トン、日が30万トン、仏伊17.5万トン。
空母の合計排水量は、米英が13.5万トン、日が8.1万トン、仏伊6万トン。
よく「各国の保有艦比率を 5:3:1.75 にした」と言われるがそういう訳ではない。「各国の戦艦の合計排水量の 5:3:1.75 にした」というのが正しい表現である。当時の海軍戦力の主力が戦艦だったため、このように言われようなったと思われる。
その他の事項として、要塞化禁止が盛り込まれた。ただし、日本の奄美大島以外の奄美群島・対馬、米国のアラスカ・パナマ運河・ハワイ諸島、英国のシンガポールは対象外とされた。
九カ国条約とは、大正11年(1922年)2月6日に締結された、中華民国に関する条約である。
日本・米国・英国・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・中華民国間が署名した。
この条約は日本の支那大陸進出を抑制するたものものであると同時に、欧米列強の支那大陸における権益の保護を図ったものである。
戦艦「
第一次世界大戦で欧州各国の力が低下したため、日本と米国の力は相対的に上がった。
日本は日露戦争(明治37年・1904年~明治38年・1905年)に勝利し、第一次世界大戦(大正3年・1914年~大正7年・1918年)でも戦勝国となった。そして、国際連盟の常任理事国(大正9年・1920年)となった。
一方、米国も1800年代末には経済力世界一となっていたが、国際的な地位はそれほど高くはなかった。米国は第一次世界大戦で当初は中立の立場をとり大儲けし、終盤に参戦して戦勝国となる。しかし、国際連盟には参加できなかった。
米国がワシントン会議を開いた目的の一つは、日本を抑えるための国際的合意をつくることだった。
米国はこれを完全に達成した。
日本は、当時世界最強と言われていた英国との「日英同盟」を解消させられてしまう。四カ国条約はそのためのものと言われている。
更に、ワシントン海軍軍縮条約により、日本の軍事力強化に歯止めがかけられてしまう。ただ、世界的に軍縮の気運が高まっていたのも事実である。日本も例外ではなかった。
極めつけは、日本の支那大陸での利権を放棄しろという「九カ国条約」だ。この条約は米国と英国が、支那大陸での日本の動きを抑えるためのものだ。そもそも、九カ国条約には、支那大陸に大きな利権をもつソ連が含まれていない。
これは個人的な意見なので参考にされても困るが。
ワシントン会議は、米国が力をつけてきた日本を縛るために仕掛けた罠だったように感じる。
米国は自分のライバルとなりそうな国を、早めに潰す外交戦略をとる。
これは当時から変わっていない。
そして、日本と米国はすでにこの時、戦争をする運命だったのではないのだろうか?
確実に言えることは、「米国は自分勝手な国」ということである。