今日は、ヤルタ会談が始まった日だ。
ヤルタ会談とは、昭和20年(1945年)2月4日~11日にかけ、クリミア半島南端のヤルタで行われた、米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相による首脳会談である。
第二次世界大戦後の国際秩序が決められた。
すでに第二次世界大戦は終盤入り、イタリアは降伏、ドイツも降伏に近い状態だった。米・英・ソは、すでに勝利を確信していた。
ヤルタ会談を発端として、平成元年(1989年)まで「冷戦」が続くこととなる。
米国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営の対立構造である。
これを以後、「ヤルタ体制」と呼ぶようになる。
ヤルタ会談に臨む(左から)英国のチャーチル、米国のルーズベルト、ソ連のスターリン、出典:Wikipedia
ヤルタ会談の主な内容は以下の3つだ。
ポーランド問題には、会談の半分以上の時間がかけられた。
当時のポーランドは、西側をソ連、東側をドイツに占領されていた。
ソ連はルブリンに「ポーランド国民解放委員会」(後のルブリン共産党政権)をすでに樹立していた。
一方、英国はロンドンにある「ポーランド亡命政府」をポーランドの正式な政権として承認していた。
どちらが正式な政権であるかを巡り、ソ連と英国は対立した。
ポーランドは両国にとって、安全保障上の重要な地域だった。
米国の仲介により、総選挙を実施しポーランド国民が政権を選ぶこと、またポーランドの国境と場所自体を西へ移動させることで決着した。
・・・が、スターリンは帰国した「ロンドン亡命政権」の指導者を逮捕する。
「ルブリン共産党政権」が誕生し、ポーランドは社会主義国となってしまう。
これにより、米ソの対立が深まることとなってしまう。
ドイツは、米国・英国・フランス・ソ連の4カ国で共同管理することが決められ、国土の四分の一を失うことになる。
スターリンはドイツを再起不能にまでするつもりだったが、チャーチルがそれをさせなかった。
チャーチルは、第一次世界大戦でドイツに過酷な戦後賠償を負わせたことが、第二次世界大戦の発端となったことを理解していた。
ただ、ドイツはその後の「冷戦」により、分断国家となってしまう。
極東密約というのは、日本に関することである。
日本では「
日本軍はその戦い方をゲリラ戦に変えてきていた。
米国は日本本土を制圧する場合、150万人ほどの死者がでるとの予測をしていた。この時には、まだ原子爆弾は完成していない。
米国人にそんなに多くの死者をだしたら、ルーズベルトは次の選挙には勝てない。
ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること。その条件は、南樺太及び千島列島のソ連帰属、旅順租借権のソ連による回復、大連に関するソ連の優越的地位などである。
千島列島は、北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島を言う。
北方領土のうち、
これがソ連の後継国であるロシアが、なかなか返還に応じない理由の一つでもある。
ロシアは当然の報酬と思っているのだ。
ヤルタ会談は、たった3カ国で第二次世界大戦後の世界のことを決めてしまった。
国と国との関係は、どれだけ国力があるかが重要なのだ。