今日は
吉林省通化市、出典:反日勢力無力化ブログ
通化事件とは、昭和21年(1946年)2月3日に、現在の吉林省通化市で起きた、支那共産党軍(八路軍)と朝鮮人民義勇軍(
日本人約3,000人が虐殺されたというのが通説であり、10,000人を超えるという調査結果もある。被害者の大部分は一般市民だった。
大東亜戦争が終結するまでは「
満州国は日本の影響を強く受けており、事実上、日本の統治下といえる状態だった。
昭和20年(1945年)8月18日、満州国は滅亡し、通化市は中華民国・国民党軍の統治下におかれる。
この時、通化市には在留邦人約17,000人と、ソ連軍からの迫害から逃れてきた遺留民を合わせ、30,000人以上の日本人がいた。多くは女性や子供、老人で、日本兵の多くはソ連軍によりシベリアに連行されてしまっていた。
そして、国民党軍との間で武力衝突が発生し、国民党軍は撤退する。
ソ連軍も11月には撤退する。多くの強姦事件を起こして。
この時から、通化市は支那共産党が統治するようになり、現在に至る。
支那共産党軍は、通化市の行政幹部だった日本人や支那人を次々と逮捕、拷問の後、人民裁判にかけ処刑する。また、「清算運動」と称し、民族を問わず通化市民から金品などの掠奪を始める。
支那共産党軍と共闘していた朝鮮人民義勇軍もこれに加わり、多くの略奪や暴行、強姦を行う。
昭和21年(1941年)1月10日、支那共産党の協力者だった日本人男性が何者かによって殺害される。「一月十日事件」である。
支那共産党軍はこれを理由に、「日本人遺留民会」の幹部ら日本人140人を容疑者として捕える。
同月21日には、菅原達郎通化省次長ら4人を市中引き回しにした上、渾江の河原で公開処刑する。遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されハチの巣にされた。この事件は現地の日本人に大きな衝撃を与えた。
この頃、旧関東軍が主体となり、中華民国・国民党軍の支援も得て、支那共産党軍から通化市を奪還する計画が進んでいた。
昭和21年(1946年)2月3日午前3時、旧関東軍兵士と日本人居留民からなる反乱軍により、通化市の奪還作戦が開始された。
先発隊は変電所を占拠した。
午前4時、電灯を3度点滅させたのを合図に、各所に待機していた部隊は、在留日本人は支那共産党司令部や警察署などを次々と襲撃した。
しかし、この計画は事前に察知されていた。最高司令官の
反乱軍は多くの死傷者をだし、鎮圧されてしまう。
そして、ここからが本当の地獄の始まりとなる。
午前8時、通化市にいる16歳以上の日本人男性全員が拘束され、連行されてしまう。女性でも事件に関与したとみなされた者は連行された。
日本人を連行する際には、一人一人首を針金でつなぎ合わせて連行した。零下二十度になる極寒のなかを、病人までも数珠繋ぎで行進させた。途中で倒れる者はその場で銃殺された。
拘束者は3,000人以上に上り、小銃で殴りつけられるなどして、建物の各部屋に押し込められた。
専員公署では、8畳ほどの部屋に120人が強引に押し込められた。身動きは一切とれない状態である。
拘束者たちは、5日間立ったままの状態を強いられる。大便・小便は垂れ流しのままである。
精神に異常をきたし、声を出すものが続出した。そして、その度に銃撃が行われた。殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされた。
拘束者たちは、5日後に部屋から引き出される。
その時、朝鮮人民義勇軍の兵士たちに棍棒で殴りつけられ、多くの者が撲殺された。撲殺を免れた者の多くも、手足を折られるなどの怪我をした。
その後、支那共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した
日本人は川岸に一人ずつ並べられ、銃殺されていった。
女性でも処刑された者もいた。服ははぎ取られ、裸の遺体が転がっていたという。
こうして、支那共産党軍(八路軍)と朝鮮人民義勇軍軍(
ウイグルやチベット、南モンゴルなどでは、この通化事件を遥かに超える規模の虐殺が行われている。
日本人はこの事実を知るべきである。