素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

【皇紀】2679年3月4日

今日は、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt) が第32代アメリカ合衆国大統領に就任した日だ。

 

ルーズベルトは、史上唯一4選をした米国大統領であり、唯一重度の身体障害を持った(両足が不自由)米国大統領である。

初めて女性閣僚を任命した米国大統領でもある。

 

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フランクリン・デラノ・ルーズベルト、出典:Wikipedia

 

ルーズベルトは、明治15年(1882年)1月30日にニューヨーク州北部のハイドパークで生まれる。

明治37年(1904年)にハーバード大学を卒業。

明治38年(1905年)に、セオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚。

明治41年(1908年)にはコロンビア大学ロースクールを卒業する。

明治44年(1911年)1月1日、ニューヨーク州上院議員(ダッチェス郡選出)として政治家としてのキャリアをスタートする。

その後、アメリカ合衆国海軍次官ニューヨーク州知事を歴任。

昭和8年(1933年)3月4日、アメリカ合衆国大統領となる。

 

ルーズベルトが大統領に就任する前の昭和4年(1929年)、世界大恐慌が発生する。前大統領のハーバート・フーヴァーは有効な対策をとれないまま退陣する。

ルーズベルトは就任直後、「ニューディール政策」と呼ばれる一連の経済政策を行う。簡単に言えば、政府が市場経済に積極的に介入する政策である。この政策は、日本の高橋是清たかはし これきよが行った一連の経済政策と似た部分が非常に多い。

ニューディール政策により米国の経済は回復、ルーズベルトは米国民から絶大な支持を得ることに成功する。

 

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ルーズベルト大統領と英国のチャーチル首相(昭和16年8月)、出典:Wikipedia

 

ルーズベルトは、昭和14年(1939年)9月に始まった第二次世界大戦に参戦したいと考えていた。ドイツに追い詰められた英国を助けるためである。

しかし、当時の米国民の多くは第二次世界大戦への参戦を望んでいなかった。

ルーズベルトは戦争に参加しないことを公約に、昭和15年(1940年)11月、3選を果たす。

 

ルーズベルトには、第二次世界大戦に参戦するための口実が必要だった。

ドイツの潜水艦を挑発し、ドイツ側から攻撃させようするが、ドイツは挑発にのらなかった。

そのため、ルーズベルトはドイツと同盟を結んでいた日本を挑発する。

 

昭和15年(1940年)12月、米国議会は日本と交戦中の中華民国に対し、1億ドルの借款供与案を可決する。

昭和16年(1941年)1月には、大統領権限で他国に武器や軍需品を売却、譲渡、貸与することができる「武器貸与法」を成立させる。

以降、英国や中華民国ソ連に積極的に軍事援助を行う。

 

昭和16年(1941年)7月25日、米国は国内の日本資産を凍結する。

同年8月1日には、日本への石油輸出を全面的に禁止する。英国や中華民国、オランダにも協力させる。通称「ABCD包囲網」である。近代国家は石油がなければ成り立たない。日本に「死ね」と言っているのと同じである。

同年11月26日、米国は日本に「ハル・ノート」と呼ばれる最後通告を突き付ける。日本に支那大陸から撤退し、日清戦争以前に戻れというものだ。日本の安全保障を考えたとき、それはとても承諾できるものではなかった。

 

日本は餓死するか、戦うかの状況まで追い込まれてしまう。

その後、日本と米国との間で、戦争が始まることとなる。

 

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強制収容される日系米国人、出典:Wikipedia

 

ルーズベルトは、凄まじい人種差別主義者だった。

駐米英国公使ロナルド・キャンベルとの会話では、「日本人の頭蓋骨は白人のものより約2,000年発達が遅れている」というスミソニアン博物館の研究者による見解を紹介している。

その上で、「日本人が敗北した後は、他の人種との結婚をあらゆる手段を用いて奨励すべきである」と述べている。

これは日本人を民族浄化(民族を消滅)させるという意味と推測される。実際に、ルーズベルトはそう思われても仕方のない政策や行動を行っている。

 

昭和17年(1942年)2月19日、 ルーズベルトは「大統領令9066号」に署名する。陸軍長官に特定地域を軍管理地域に指定する権限を与えるものである。

これにより、米国内の日系人が強制収容されることになる。なお、米国内のドイツ系・イタリア系人に対して、強制収容は行われていない。

 

昭和19年(1944年)6月13日の米国の新聞には、「ルーズベルト大統領が、フランシス・E・ウォルター連邦議会下院議員からレターオープナーを贈呈されたが、それが日本兵の腕の骨から作られたものである」と報道されている。

当のルーズベルトは、このような行為を隠すことも、恥じることもなかった。

 

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長崎市に投下された原爆のキノコ雲、出典:Wikipedia

 

ルーズベルトは、原子爆弾の製造計画を承認する。通称「マンハッタン計画」である。

昭和14年(1939年)8月2日、物理学者レオ・シラードが、アインシュタインの署名を得た手紙をルーズベルトに送る。核分裂を利用した兵器の研究に資金を提供するよう助言したものである。後に、アインシュタインはこの手紙に署名したことを後悔したという。

同年10月11日、ルーズベルトはウラン諮問委員会の設立を承認する。これにより事実上、原子爆弾の研究・開発が開始される。

 

昭和20年(1945年)4月12日、ルーズベルト脳卒中で死去する。

この時、原子爆弾はまだ完成していなかった。

もしルーズベルトがあと1年生きていたら、どうなっていただろうか?

考えただけでも恐ろしくなる。

ルーズベルトは、日本にとって最悪の米国大統領だった。