今日は日本海海戦があった日だ。
日本海海戦とは、日露戦争中の明治38年(1905年)5月27日から翌日にかけて、日本の連合艦隊とロシア帝国のバルチック艦隊の間で行われた海戦である。日本が大勝利を収めた。
19当世紀末、ロシア帝国は支那大陸北東部を拠点とし、朝鮮半島や支那大陸中央地域の支配をもくろむようになる。
明治28年(1895年)には、三国干渉により、念願だった凍らない港のある「旅順(りょじゅん)」を租借地とする。更に、日本の勢力圏であった朝鮮半島や満州の利権も獲得し始めた。
明治36年(1903年)8月からの日露交渉が行われる。日本は譲歩し、朝鮮半島を日本、満洲をロシア帝国の支配下に置くという案(満韓交換論)をロシア帝国に提案するが、交渉は決裂となる。
明治37年(1904年)2月8日、日露戦争が始まる。当時の国家歳入は、日本約2億9千円、ロシア帝国約20億8千円。常備兵力は日本約20万人 、ロシア帝国約300万人。軍艦の総排水量は日本23万トン、ロシア帝国約60万トン。厳しい戦いである。
日本は制海権を確保、補給や兵の移動を有利に進めた。しかし、犠牲も大きかった。
ロシア帝国のバルチック艦隊が日本の連合艦隊に撃破された場所、出典:Wikipedia
大日本帝国海軍は、明治37年(1904年)8月10日の黄海海戦で勝利。更に、8月14日の蔚山沖海戦にも勝利。翌明治38年(1905年)1月1日には大日本帝国陸軍が旅順要塞を陥落。極東海域の制海権を確保した。
明治37年(1904年)10月15日、ロシア帝国は制海権を奪い返すため、主力の「バルチック艦隊」を出港させる。もしロシア帝国に制海権を奪い返されると、朝鮮半島や支那大陸の日本軍は孤立してしまう。
実はこの時、ロシア帝国のバルチック艦隊はボロボロの状態だった。彼らはほぼ地球を半周してきた。しかも、日英同盟が機能したことによる大英帝国の嫌がらせなどもあり、訓練は不十分、疲労した状態だった。直前に、副官が過労で病死するという不幸も重なった。
一方、日本の連合艦隊は、訓練も休養も十分な状態だった。指揮官の東郷平八郎海軍大将は指揮能力、統率能力に秀でていた。
日本海海戦は日本の圧勝となった。
日本:水雷艇3隻沈没、戦死117名、戦傷583名
ロ :21隻沈没、被拿捕6隻、中立国抑留6隻、戦死4,830名、捕虜6,106名
当時の海戦は軍艦どうしが向かい合って打ち合うため、ここまで一方的な戦いとなった例は他にない。
明治38年(1905年)9月5日、ポーツマス条約が署名され、日露戦争は終わる。多くの先人達の苦労と幸運があり、日本はロシア帝国の侵略から救われた。
歴史に『もし』はないが、日本海海戦に勝利できなければ戦争は継続していただろう。
そうなれば日本が敗北した可能性は高い。
想像するだけで恐ろしくなる。