素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

【皇紀】2679年8月9日

昭和20年8月9日午前11時2分、長崎に原子爆弾が投下された。

 

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原爆投下前(左)と投下後(右)、原典:Wikipedia

 

被害状況は以下のとおり(長崎市原爆資料保存委員会が昭和25年7月に発表)

死者  :73,884人
重軽傷者:74,909人
罹災戸数:18,409戸(市内総戸数の約36%)
全焼  :11,574戸(市内の約3分の1)
全壊  :  1,326戸 
半壊  :  5,509戸(全焼・全壊を除く)

他に身元が判明しない死体が約2,000体あった。

この数字が今日の通説となっている。

 

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爆心地から500~600m地点にあった「浦上天主堂」、出典:Wikipedia

 

爆心地は街中心部から北へ約3km、長崎市松山町171番地のテニスコートの上空約500m。

ほぼ真下にあったキリスト教カトリック)の教会「浦上天主堂」では、告解(ゆるしの秘読)を行っていた。現場にいた司祭と数十名の信者は、爆発に伴う熱線や崩壊した建物の下敷きとなり、全員即死した。

 

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爆心地のほぼ真下の地点、出典:Wikipedia

 

原子爆弾の爆発と同時に、空中に火球が発生した。一万分の一秒後、直径約30メートルとなり、中心点の温度は摂氏30万度ほどとなった。更に、百分の一秒~一秒の間に、直径は100~280メートルまで急激に膨張した。

火球は爆発から約3秒の間、強力な熱線を放出した。真下の「浦上天主堂」では、摂氏3,000~4,000度にまで達したと推定されている。

 

爆発に伴い強力な気圧変化も発生し、凄まじい衝撃波となり周囲に広がった。同時に強力な爆風が起こり、大被害が発生した。

この時の爆風は想像を絶するものだった。爆心地の最大風速は440m/sにまで達したといわれる。これは音速よりも早い。

爆心地から0.5km地点の最大風速は280m/s、1km地点は160m/s、1.5km地点は94m/sと推定されている。

 

爆心地より1km以内の区域では、爆風若しくは熱線により、大部分の人が即死した。

木造建築はほぼ全て焼失又は全壊。コンクリートや鉄筋造りの建物には、全壊を免れたものもあった。

 

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爆心地から約10km離れた香焼島から原爆投下から約15分後に撮影された写真(松田弘道撮影)、出典:Wikipedia

 

原子爆弾小倉市(現在の北九州市)に投下される予定だった。

原爆を搭載した爆撃機は、小倉市上空の投下ポイントまで到着した。しかし、視界不良のため、なかなか原爆を投下をすることができなかった。3度試みたがすべて失敗してしまう。この間、約45分。

そのうち、日本軍の高射砲による対空攻撃が激しくなる。更に、戦闘機が緊急発進したため、原爆を搭載した爆撃機小倉市上空を離脱した。

その帰り道、長崎市に原爆を投下した。

 

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八幡製鉄所の職員がコールタールを燃やしたことを伝える新聞記事、出典:Twitter

 

米軍の報告書によると、当日の小倉市上空には雲ではなく『煙』があったと記述されている。

この煙の正体には2つの説がある。一つは、前日に米軍が行った、八幡市空襲(距離約7km)の残煙。もう一つは、八幡製鉄所の職員がコールタールを燃やして張った煙幕。

 

八幡製鉄所職員のこの行動がなければ、小倉市(現在の北九州市)に原子爆弾が落とされていたかもしれない。

日本軍による高射砲の効果もあっただろう。

どちらにしろ、小倉市は原爆投下に対して抑止力が効いていた。

これは歴史上の事実である。

 

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出典:田上富久 - Wikipedia

 

田上富久長崎市長は、昨年の平和記念式典で、「核兵器禁止条約」に賛同するよう政府に迫った。

そんなことをしても、国民の生命と財産を守ることはできない。

必要なのは抑止力である。