今日はマリア・ルス号事件が起きた日だ。「マリア・ルーズ号事件」とも呼ばれている。
明治5年(1872年)、横浜港に入港していたマリア・ルス号(ペルー船籍)から、惨い扱いをうけていた支那人苦力(クーリー)が脱走した。
日本政府は支那人苦力を保護した。これにより、日本は初めて国際裁判の当事者となった。
金色と黄色が「清」の最大領土、金色が本土「支那」で黄色は侵略地、出典:Wikimedia
17世紀初頭から20世紀初頭、東アジア大陸には「清(しん)」という国が存在していた。中華人民共和国はまだない。
上の画像の金色の部分が漢民族の居住地で「支那」と呼ばれる地域。ここに存在する国や王朝も「支那」と呼ぶ。
支那という呼称は「支那の呼稱を避けることに關する件」により、現在ではあまり使われなくなった。
苦力(クーリー)とは、19世紀から20世紀初頭にかけての、支那人やインド人を中心とするアジア系の出稼ぎ労働者、若しくは、移民を指す。
当時は奴隷制度が廃止されたため、欧米や植民地で労働力が不足していた。これに代わるものとして、苦力は低賃金で過酷な労働を強いられていた。
ブローカー結社により、苦力の労働力は売買されていた。マリア・ルス号は苦力を運んでいた。
明治5年(1872年)7月9日、清のマカオから南米西岸のペルーに向かっていたマリア・ルス号(ペルー船籍)は、修理のため横浜港に入港した。同船には支那人(清国籍)苦力231名が乗船しており、過酷な待遇を受けていた。
このうち、数名の支那人苦力が逃亡、英国軍艦「アイアンデューク号」に助けを求めた。
英国はマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断。英国在日公使は日本政府に対し、支那人(清国籍)の救助を要請した。
当時の外務卿(外務大臣)副島種臣は、神奈川県権令(副知事)大江卓に支那人の救助を命じた。ペルーとの間で国際紛争が起きるリスクがあったが、副島は支那人の人権を守るため決断した。
後日、マリア・ルス号は横浜港からの出航禁止を命じられ、同船の船長は裁判にかけられた。
裁判により、船長らの支那人苦力への虐待が立証された。マリア・ルス号には、支那人苦力の解放を条件に、出航許可が与えられた。
明治5年(1872年)10月15日、支那人苦力は清に帰国した。清国政府は日本政府に謝意を表明した。
明治6年(1873年)2月、ペルー政府は日本政府に対し、謝罪と賠償を要求した。交渉の結果、翌年にロシア皇帝・アレクサンドル2世を裁判官とする国際仲裁裁判が開催されることになった。
明治8年(1875年)6月、法廷は「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決を出し、ペルー側の要求を退けた。
この裁判でペルー側は「日本にも娼妓制度があり、人身売買が行われている」と指摘していた。
明治8年(1875年)11月2日、日本政府は人身売買禁止令を出した。前借金で縛られていた娼婦(遊女)たちは解放された。
副島種臣は大きなリスクを覚悟で、支那人苦力を助ける決断をした。1円の得にもならないのに。
現在、日本の「人権派」のなかに、副島種臣のような人間はいるだろうか...