50年前の今日は三島事件が起きた日だ。
三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)で割腹自決した。
三島由紀夫...本名は平岡公威(ひらおか きみたけ)、大正14年(1925年)1月14日。
戦後の日本を代表する作家・劇作家であると同時に、政治活動家でもあった。
市ヶ谷駐屯地の総監室のバルコニーで演説をする三島由紀夫、出典:Nationaal Archief
昭和45年(1970年)11月25日の午前11時前、三島は自らが立ち上げた民間防衛組織「楯の会」の4人と共に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れた。
三島は、東部方面総監部の益田兼利総監と会う約束をしていた。三島ら5人は総監室に通された。
11時5分頃、三島らは隙をつき総監を拘束した。この時、自衛隊員8人が負傷した。
三島は、市ヶ谷駐屯地の全自衛官を本館前に集めるよう要求した。条件を飲めば、総督の身柄は安全に引き渡すとした。
自衛隊幹部らは三島の要求を受け入れることを決めた。
正午を告げるサイレンの後、三島は総監室のバルコニーに立った。そして、集まった800~1,000人ほどの自衛官を前に演説を始めた。
「憲法改正のチャンスはない!」「自衛隊が国軍になる日はない!」「建軍の本義はない!」と叫んだ。
そして、自衛官にクーデター決起を訴えた。
12時10分頃、三島はバルコニーから総監室に戻った。
そして、三島は割腹自決した。森田必勝(もりた まさかつ)も自決した。
12時20分過ぎ、残り3人は総監を解放し、警察に逮捕された。
人質となった総監は、三島らに憎しみの感情はないという。
それどころか「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい」と語った。
三島らがしたことはクーデター未遂、監禁致傷、暴力行為、傷害...違法行為である。
しかし、日本のことを真剣に心配しての行動だと筆者は思う。そうでなければ、命をかけることなど出来ない。
三島は自分たちの行動を、50年後、100年後、必ず理解する日本人が現れると信じていた。
今日は三島事件から50年だ。