素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

【皇紀】2681年1月16日

今日は第一次近衛声明が発表された日だ。

支那事変(大東亜戦争)中の昭和13年(1938年)1月16日、近衛文麿(このえ ふみまろ)総理は「国民政府を対手とせず」との声明を出し、和平交渉の打ち切りを宣言した。

結果、中華民国との事変(戦争)は泥沼化してしまった。

 

当時、支那大陸は「中華民国」という国だった。最も権力を持っていたのが蔣介石(しょうかいせ)率いる支那国民党で、「国民政府」などと呼ばれていた。

支那共産党はまだ弱小勢力。

 

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近衞文麿、出典:Wikipedia

 

昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が発生した。

北京にある盧溝橋で、日本軍と中国国民革命軍が軍事衝突。双方に死傷者がでた。

 

同月11日、近衛内閣は不拡大方針と派兵(増員)を同時に決定。

 

同月29日、通州事件が発生。

通州(現:北京市通州区)で冀東防共自治政府の保安隊(支那人部隊)が、200人超の日本人を虐殺した。虐殺法は見るも無残なものだった。

同事件前後には、日本人を狙った虐殺事件が相次いだ。

 

8月13日、第二次上海事変が発生。日本と中華民国は本格的な戦闘状態となる。

戦争ではなく「事変」と言われるのは、両国ともに宣戦布告をしなかったからである。理由は両国とも米国から物資の供給を受けており、宣戦布告するとこれが受けられなくなるため。

 

11月12日、日本軍が第二次上海事変に勝利。

11月20日、国民政府は首都を南京から重慶へ移すと宣言する。

12月13日、日本軍が南京戦で勝利。

 

昭和13年(1938年)1月11日、御前会議で陸軍参謀本部の主導により「支那事変処理根本方針」が決定された。ドイツの仲介による講和を求める方針だった。

しかし...

 

同月16日、近衛文麿総理は「国民政府を対手とせず」との声明を出し、和平交渉の打ち切りを宣言した。これが「第一次近衛声明」である。

近衛は汪兆銘(おうちょうめい)を国民政府から離脱させて、彼に親日政権を作らせることで和平を実現しようとしていた。この試みは失敗する。

 

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歴史に”もし”はないが...

筆者は「近衛が国民政府との和平交渉に積極的だったら、支那事変は早期に終わっていた」と思う。

日本が米国と戦うことも、中華人民共和国が建国することもなかっただろう。

 

近衛の行動を見ていると、同じ総理大臣だった鳩山由紀夫氏と似ている。

一言で言えば「風見鶏」だ。

二人とも、日本を任せることができる人物ではない。