今日は盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起きた日だ。
昭和12年(1937年)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で演習をしていた日本軍に、実弾が撃ち込まれた。翌朝、日本軍と支那国民党軍(国民革命軍)が軍事衝突した。
盧溝橋(ろこうきょう)、出典:Wikipedia
盧溝橋は、支那北京市の南西部・豊台区を流れる永定河(旧:盧溝河)に架かる石造りのアーチ橋。全長266.5m、11幅のアーチからなる。
当時、支那大陸は「中華民国」という国だった。実行支配地域は、現在の中華人民共和国より小さい。
中華民国で権力を持っていたのが支那国民党で、支那国民党の軍隊が「国民革命軍」である。
なお、北京は「北平(ほくへい)」と呼ばれていた。
昭和8年(1933年)に発行された地図
昭和12年(1937年)7月7日午後10時40分頃、日本軍支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊が演習をやっていると、何者かにより実弾が撃ち込まれた。
点呼をすると、兵士が1人行方不明となっていた。
中隊長は付近の支那国民党軍に攻撃されたと判断。部隊に応戦体制に入られると同時に、第3大隊本部に報告した。
行方不明となった兵士は、約20分後に戻ってきた。
翌8日午前0時頃、急報を受けた第3大隊長は、第1連隊長の牟田口廉也(むたぐち れんや)大佐に電話した。第1連隊長は付近にある一文字山を占領し、戦闘態勢を取りつつ、支那国民党軍の部隊と交渉するよう命じた。
午前3時25分頃、第3大隊が一文字山で待機していると、3発の銃声あった。支那国民党軍の兵士が狙撃したものだった。
午前4時20分、第1連隊長(牟田口廉也大佐)は戦闘開始を許可した。
日本側は戦死者12人(16人の説あり)を出しながら、翌日までに盧溝橋付近の支那国民党軍の部隊を武装解除した。
現地日本軍は戦線を拡大しないとし、関東軍や日本本国への兵力要請は行わないとした。
7月11日、両軍の間で停戦協定が結ばれた。
盧溝橋事件は、現地軍の話合いにより解決することができた。
しかし、日本政府と中華民国政府(支那国民党)が共に、相手を批判し、戦力増強を行ったため解決を難しくした。
その後、大東亜戦争が勃発し日本は敗北。支那国民党も支那共産党との内戦に敗北し、領土は台湾のみとなった。