8月15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」だ。
昭和20年(1945年)8月15日正午から、昭和天皇による「大東亜戦争終結ノ詔書(だいとうあせんそうしゅうけつのしょうしょ)」がラジオで放送された。通称「玉音放送(ぎょくおんほうそう)」である。国民は前日に決まったポツダム宣言受諾および日本の降伏を知った。
玉音放送を聞く日本国民(昭和20年8月15日12時)、出典:Wikipedia
昭和12年(1937年)7月7日夜、北京の西南にある盧溝橋(ろこうきょう)周辺で演習中だった日本軍に対し、何者かが実弾を撃ち込む。日本軍と中華民国 (国民政府)軍は戦闘状態となる。
いわゆる「盧溝橋事件」である。
7月11日に両軍の間で現地協定が調印されるが、同日、近衛内閣は「北支派兵に関する政府声明」を発表して派兵を決定してしまう。
これが泥沼の戦闘(戦争)の始まりである。
この後、通州事件などの日本人虐殺が相次ぎ、マスコミの煽ったため、国民世論は「支那、許さず!」となる。
日本は支那大陸での戦闘を優位に進め、同年12月には中華民国の首都・南京を陥落させる。中華民国は首都を重慶に移す。
昭和13年(1938年)1月16日、第一次近衛声明が発表される。近衛総理は声明の中で「国民政府を対手とせず」と述べ、同時に川越茂駐華大使に帰国命令を発した。
蔣介石率いる国民政府は日本との和平交渉に応じる可能性もあったが、日本側はそれを自ら潰してしまった。
昭和15年(1940年)9月27日、日本とドイツとイタリアによる「日独伊三国同盟」が調印される。
日本は、米国や英国などとの外交関係を更に悪化させてしまう。
昭和16年(1941年)7月、米国は日本の在米資産を凍結。翌8月には、石油の対日全面禁輸に踏み切る。いわゆる「ABCD包囲網」の完成である。
日本は石油の約8割を米国から輸入していた。日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱、戦時で1年~1年半という状況だった。
同年11月26日、米国は日本に「ハル・ノート」を突き付ける。
支那大陸やインドシナ等からの全面撤兵、日本が戦闘中の国民政府との和解および承認、日独伊三国同盟の事実上の放棄、一部の日本領土の放棄などが主な内容。
これは日本にとって、到底受けいられるものではなかった。日本は米国の奴隷になるか、餓死するか、戦うかの選択を迫られることとなる。
昭和16年(1941年)12月8日、日本は対米英に対して宣戦布告する。
日本は当初、戦闘を優位に進めるが、国力の差もあり敗戦してしまう。
大東亜戦争に関して、日本は何がいけなかったのか?
人それぞれに見解は違うが、筆者は主に以下の3点だと思う。
あと、米国とは遅かれ早かれ、日本は戦う運命だったと思う。
日本人のなかでも「日本は戦前、悪いことをした」と言う人がいる。
大東亜戦争が起きた経緯を知っていれば、このような戦没者を愚弄する戯言は言わない。
正しい歴史認識は重要である。