素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

【皇紀】2682年1月6日

昭和25年(1950年)1月6日、英国は中華人民共和国を承認し、中華民国と断交した。

香港主権移譲(香港返還)の発端となった出来事である。

 

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香港の地図、出典:Wikimedia Commons

 

香港は3回に分け、英国の統治下となった。

まず、天保13年(1842年)の南京条約により、香港島が清から英国に割譲され、英国の永久領土となった。

次に、安政6年(1860年)の北京条約により、九龍半島の南端が割譲。

最後に、明治31年(1898年)の展拓香港界址専条(てんたくホンコンかいしせんじょう)により、香港の残りの地域「新界」が99年間、英国に租借されることとなった。

3回とも清と英国との条約である。まだ、中華人民共和国はない。

 

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昭和25年(1950年)時点での英国と中華人民共和国の政府トップ、クレメント・アトリー(左)と毛沢東(右)

 

昭和24年(1950年)10月1日、中華人民共和国成立。

昭和25年(1950年)1月6日、英国は中華人民共和国を承認し、中華民国と断交した。ただし、英国は中華人民共和国と国交を樹立せず、中華民国との国交も維持したままだった。

 

なぜ、英国は中華人民共和国を承認したのか?

英国のアトリー政権が中華人民共和国を承認しなかった場合、中国共産党軍が香港に侵攻してくる可能性があった。そして、英国は香港を守れる状態ではなかった。

当時の英国は、昭和22年(1947年)に植民地だったインド帝国が分離独立したため、アジアにおける影響力を急速に弱めていた。

また、同盟国である米国が反植民地の姿勢だったため、戦争・紛争が発生した場合、支援を受けるのは難しい状態だった。

これらの影響もあり、英国は中華人民共和国の軍事力の前に屈したのだ。

 

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鄧小平、出典:米国国立公文書記録管理局

 

香港「新界」の租借期限が迫ってきた昭和57年(1982年)、英国の首相マーガレット・サッチャー中華人民共和国を訪れ、香港主権移譲(香港返還)に関する交渉を行った。

英国は租借地である「新界」のみ、主権移譲(返還)するつもりだった。しかし、当時の中華人民共和国の最高権力者だった鄧小平はこれを認めなかった。

鄧小平は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうると威圧。これにサッチャーは折れ、英国の領土だった「香港島」と「九龍半島の南端」も主権移譲(返還)することになってしまった。

 

平成9年(1997年)7月1日、香港は英国から中華人民共和国に主権移譲(返還)された。

50年間(2047年まで)は、一国二制度(一国両制)を維持することが条件だった。

 

香港に関して、英国は中華人民共和国に二回屈した。いや、三回か...

国際政治では、軍事力がなければ、相手の理不尽な要求を受け入れなければならない。

残念ながら...これが現実。