今日は真珠湾攻撃のあった日だ。
当時は「ハワイ海戦」と言っていた。
「真珠湾攻撃により、日本が米国に対して、先に戦争をしかけた」と思っている人も多いが、それは違う。
当時日本は「ABCD包囲網」と呼ばれる経済制裁を受けていた。
ABCD包囲網とは、昭和14年(1930年代後半)頃から、日本に対して行われた経済制裁の総称である。経済制裁を行っていた国は、米国(America)、英国(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)である。このため、各国の頭文字を取り、「ABCD包囲網」と呼ばれるようになった。
真珠湾攻撃の数か月前には、ABCD包囲網は物凄く強力なものになってしまう。
昭和16年(1941年)7月には、日本の在米資産が凍結されてしまう。これは日本政府や個人、企業が米国で持っている資産を、全て米国政府の管理下に置くということである。
翌8月には、日本への石油の輸出が禁止されてしまう。当時、日本の石油の輸入依存度は92%であった。しかも、米国からの輸入が81%を占めていた。
更に、11月26日には「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」が日本側に提示される。「ハル・ノート」である。この内容は日本が到底受け入れることができるものではなかった。
これらの行為は宣戦布告と同じである。
日本には、属国になるか、餓死するか、戦うかの選択しかなかった。
当時の米国大統領フランクリン・ルーズベルトは、ドイツに追い詰められていた英国を助けるため、参戦したいと考えていた。日本はドイツと同盟を結んでいた。そのために、利用されてしまったのだ。また、ルーズベルト政権には、多数のコミンテルンが紛れ込んでいた。ソ連も日本と米国を戦争させたがっていたのだ。
あと、「真珠湾攻撃で米国との戦争が始まった」と思っている人が多いが、それは違う。
真珠湾攻撃より少し前、日本はマレー作戦を行い、すでに米国との戦争は始まっていた。
真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機、出典:Wikipedia
昭和16年(1941年)11月26日、真珠湾を攻撃するための機動部隊が、千島列島の
戦力は、航空母艦 6隻、戦艦 2隻、重巡洋艦 2隻、軽巡洋艦 1隻、駆逐艦 9隻、艦上航空機約 350機などである。
12月8日未明・ハワイ時間12月7日、米国ハワイ準州オアフ島真珠湾の「米国海軍の太平洋艦隊と基地」に対して、日本海軍の航空機などにより攻撃が開始された。
航空機(雷撃機、水平爆撃機、戦闘機)約 350機は、2回にわたって攻撃を行った。
米軍の損害は、戦艦 8隻のうち 3隻が沈没、1隻が横転、残りは大破したほか、軽巡洋艦 3隻、駆逐艦 3隻、その他の艦艇が沈没あるいは大破した。航空機は約 180機が炎上した。米軍の死者は 2,345人であった。
日本側の損害は、航空機 29機、特殊潜航艇 5隻であった。日本軍の死者は 64人であった。
ここからは個人的な意見なので、参考にされても困るが・・・
真珠湾攻撃の戦果だけ見れば、日本側の圧勝と言える。
予想を遥かに上回るものだった。
しかし、戦略としては失敗に近い。
まず、航空母艦(以下「空母」)を沈めることができなかった。この日、ハワイにいた空母は出航し、真珠湾にはいなかった。
今のそうだが、海軍力で最も重要なのは空母だ。
開戦時の両国の空母保有数は、日本 9隻、米国 7隻だった。
1隻でも撃沈していたら、戦争の流れは大きく日本に傾いただろう。
攻撃後そのまま帰ってしまったのも、良い戦略とは言えない。
当初の作戦計画では、航空機での攻撃の後、ハワイの基地を占領する予定だった。
しかし、陸軍の陸戦隊を連れていくのをの
だったら、基地をもっと徹底的に叩くべきだった。
米国海軍のハワイ基地は、太平洋で米軍が活動するための最重要な拠点だ。
ここを完全に叩くことができていれば、米軍の日本への進行を数年遅らせることができた。
更に言えば、真珠湾を攻撃する必要があったかも疑問だ。
日本が戦争を始めた最大の理由は、石油を得るためである。
石油の産出地域であるインドネシア(当時のオランダ領東インド)と米国領だったフィリピンを占領し、米軍が来るのを待ち構えているべきだった。
40年ほど、それを想定して訓練をしていた。
また、戦線を拡大し過ぎれば、前線まで補給が届かなくなる。
大東亜戦争では、戦闘より、餓死や病死で死亡した兵士の方が多かったという説もある。
真珠湾攻撃を見ると、現場の兵士は優秀だが、司令官(大本営)が無能だったと言える。
これは大東亜戦争全体に言えることである。