今日は、共産主義者同盟(通称「ブント」)が結成された日だ。
共産主義者同盟という名称は、
昭和30年(1955年)、日本共産党は当初の暴力革命路線を放棄した。
日本共産党がその主張を変えていくことに、当時の共産党員のなかには反発する者もでてくる。その結果、日本共産党から多くの組織が生まれ、離合集散を繰り返していくことになる。
共産主義者同盟は、当初に日本共産党から分裂した代表的な組織である。
世界初の共産党からの独立した左翼と言われている。
共産主義者同盟などが結成される以前、日本に左翼と呼べる組織、日本共産党と旧日本社会党(現在の「社会民主党」)くらいしかなかった。
共産主義者同盟などの共産党、又は、日本社会党から分裂してできた組織を「新左翼」と呼ぶようになる。
これに対して、日本共産党と旧日本社会党は「
昭和33年(1958年)12月10日、共産主義者同盟 (一次ブント)は結成する。
「今日すべての共産主義党は平和共存と一国革命の絶対化、世界革命の放棄においてその本質は同一」とし、自分達以外の共産主義者を批判する。
日本共産党に対しては「代々木官僚による裏切り的性格」、革命的共産主義者同盟に対しては「革命的理論の欠如」と批判する。
また「既存の一切の党に信頼をおかず」、「一枚岩の団結の神話を捨て」、「組織の前に綱領」ではなく「実践の火の試練の中で真実の綱領を作りあげねばならぬ」などとした。
つまり、正しいのは自分達だけ。
一次ブントには勢いがあった。同盟員数は結成時点で約300人だったが、翌昭和34年(1959年)8月には約1,400人、昭和35年年の60年安保闘争時には約3,000人まで膨れあがった。
一次ブントは日米安全保障条約に大反対を表明する。俗に言う、60年安保闘争である。
昭和34年(1959年)8月、第三回大会では、「(60年安保闘争に)ブントのすべてをぶちこんで戦う」ことを決議する。
同年11月27日には、国民会議(総評・社会党など)の20,000人以上と全学連の約5,000人と統一行動をとり、国会内まで入り込み暴れる。国会の構内は10,000人のデモ隊と一次ブントらのメンバーにより埋め尽くされる。「11・27国会構内大抗議集会」である。
一次ブントはその後も闘争を繰り返すが、幕切れは呆気ないものだった。
昭和35年(1960年)7月29日、一次ブントは第5回大会を行う。
しかし、60年安保闘争評価をめぐり紛糾してしまう。
そして、戦旗派、プロレタリア通信派(プロ通派)、革命の通達派(革通派)などに分裂してしまう。
事実上の解体である。
二次ブント分裂後の系統図、出典:Wikipedia
昭和41年(1966年)9月、第6回大会が開催される。「二次ブント」の結成である。
一次ブントの時と同様、結成直後、同盟員数は急激に膨れ上がる。
同年12月、明治大学記念講堂で大会には、のべ3,000人が集まったという。
二次ブントは、第一次羽田事件や東大安田講堂事件、新宿騒乱などの暴力事件を起こしてしまう。
そして、一次ブントの時と同様に「内ゲバ」が始めてしまう。
昭和44年(1969年)7月には、内ゲバにより、新左翼運動としては初の死者を出しまう。ここで分裂が決定的なものとなる。
昭和45年(1970年)6月、豊島公会堂で開かれた集会で、叛旗派・情況派・戦旗派が公然が激しく対立する。
その数日後、叛旗派と情況派が代々木公園の集会場でぶつかり合う。
二次ブントはこうして自然消滅してしまう。
この二次ブントから分裂した組織には、共産主義者同盟赤軍派(通称「赤軍派」)や日本赤軍、連合赤軍などがある。
彼らのなかには、日本や社会を良くしたいと思い参加した者も多かったことだろう。
しかし、なぜこのようになってしまったのだろうか?
理由はいくつか考えられるが、思い込みが強過ぎたと思う。そのため、自分と違う考えも理解しようとする包容力に欠けていた。
あと、確実に言えることは、暴力はよくない。