応仁の乱とは、室町幕府8代将軍
戦国時代が始まる発端ともなった。(別の説もある)
この戦いにより、京都の建物の9割が灰になったという記録がある。特に北側は酷かった。これほどの被害がでた戦いは、歴史上類がない。
京都がかつての繁栄を取り戻したのは、応仁の乱が終結して100年ほど経ってからになる。織田信長や豊臣秀吉が、京都の復興に尽力した。
応仁の乱は
壬申の乱:日本が事実上できた
応仁の乱:後世の日本に最も大きな影響を与えた
応仁の乱の発端となったのは、室町幕府8代将軍
義政には子が無かった。その為、弟の
ところがその後、義政に子ができる。後の九代将軍の
義政の正室・
これにより、『弟の義視』vs『子の義尚』の対立の構図が生まれる。
しかし、将軍の義政は文化的な趣味に傾倒し、どちらに将軍職を譲るのか、自らの意思をハッキリと示さなかった。
これに室町幕府管領家の畠山氏、
更に、他の守護大名たちも自分たちの権力を拡大させるため、この対立に加わっていく。
守護大名とは、国(尾張・遠江など)単位で設置された軍事指揮官・行政官である。室町時代の守護を表す日本史上の概念で、経済的権能を獲得していたのが最大の特徴。
応仁元年(1467年)の勢力図、水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲
出典:Wikipedia
応仁の乱が開始された時の陣営は以下のとおり。
しかし、2年ほどしたら、弟の義視と子の義尚が東軍と西軍で入れ替わることとなる。
細川勝元らが御所を占拠した際、将軍の義政、政敵である富子と「子の義尚」を手中に収めることに成功する。
ところが、その後、弟の義視は将軍の義政と不仲になり、政所執事である伊勢貞親とも対立、暗殺未遂事件などもあり、東軍内で浮いた存在となってしまう。
立場のなくなった義視は出奔し、西軍の陣営に迎え入れられる。
こうして、両軍とも担いでいた神輿が変わるという前代未聞の事件が発生する。
文明5年(1473年)には、西軍総大将の宗全と、東軍総大将の勝元が相次いで死去する。
更に同年、子の
しかし、戦いはそのまま継続される。
戦っていた守護大名らにとって将軍は誰でもよかった。自分たちの権力を拡大させるのが目的だったからだ。実際に自らの陣営を裏切り敵の陣営に寝返った者も多かった。
文明9年(1477年)12月16日、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された大内政弘(この時の西軍のトップ)が、京都から撤収したことにより、西軍は事実上解体される。応仁の乱は事実上終結し、京都での戦闘は収束する。
しかし、応仁の乱により幕府権力は弱くなり、戦国時代が始まる発端となってしまう。(明応の政変が最大の発端とする説もある)
応仁の乱は、最初から最後までグダグダだった。
権力者が優柔不断では国が滅びるという良い例と言えよう。