今日は、大統領令9066号が署名された日だ。
通称 「防衛のための強制移動の権限」である。
大統領令9066号とは、大東亜戦争中の昭和17年(1942年)2月19日に、当時の米国大統領のフランクリン・ルーズベルトが署名・発令した大統領令(大統領が制定する命令)である。
陸軍長官に、特定の地域を軍管理地域に指定する権限が与えられた。
昭和11年(1936年)に軍の作戦部長にあてた覚書には、すでに日系人の強制収容計画について書かれていた。
大統領令9066号に署名したフランクリン・D・ルーズベルト大統領、出典:Wikipedia
明治から大東亜戦争終結まで、日本は労働力が過剰な状態だった。
日本は移民を送り出す側だった。
移住先は、米国や南米諸国、フィリピン、
特に米国とブラジルには、多くの日本人が移住した。
特に西海岸が酷かった。
昭和17年(1942年)3月2日、西海岸では軍管理地域が指定され、日系人の立ち退きが求められた。
そして、同年3月29日には強制収容が開始された。
西海岸とアリゾナ州南部では、全ての日系人が立ち退きの対象となったのだ。
この件に関して、カリフォルニア州司法長官アール・ウォーレンは「白人ならばまだ彼らの忠誠心を試す方法もあろうというもの。しかし、日本人とあらば話は全く別である」と述べている。
日系人に対する強制退去命令が出された地域、☆は強制収容所など、出典:Wikipedia
大東亜戦争中、米国全体では約12万人の日系人が強制収容所に収容された。
彼らのうち、約62%は二世か三世で、米国の市民権を持つ者であった。
残りは一世、つまり外国人だ。
米国は出生地主義を採用しているため、米国で生まれた子には米国籍が与えられる。
なお、イタリア系やドイツ系も強制収容の対象になったが、ドイツ系は11,000人、イタリア系は3,000人であった。このなかには、ユダヤ人亡命者も含まれる。
強制収容所内には、急ごしらえの粗末な住居や工場、農場、病院、商店、学校などが作られた。
働くものに給与は与えられていた。
収容所内の移動は自由だったが、基本的に外部に出ることはできなかった。
強制収容所が閉鎖したのは大東亜戦争が終結した後、昭和20年(1945年)10月から11月にかけてである。
日系米国人は米国民であるにもかかわらず、日本にルーツを持つということだけで米国の市民権まではく奪された。ドイツ系米国人やイタリア系米国人は、この様な仕打ちを受けることはなかった。
彼らの市民権が回復したのは、昭和27年(1952年)6月に「移民国籍法」、「通称「マッカラン・ウォルター法」)が施行されてからである。
日系米国人を補償するための「市民の自由法」に署名するロナルド・レーガン大統領、出典:Wikipedia
昭和63年(1988年)、ロナルド・レーガン大統領は「市民の自由法」(通称「日系米国人補償法」)に署名した。
米国政府は強制収容を行った日系米国人に対して正式に謝罪し、1人当たり2万ドルの損害賠償を行った。
また、日系人に対する強制収容についての教育を米国内の学校で行うため、総額12億5千万ドルの教育基金も設立された。
米国は日本より人種差別の激しい国である。
正確には、日本のように人種差別がない国は世界にほとんどない。
「戦後、米国が日本に民主主義を教えた」というのは嘘である。