東京大虐殺(東京大空襲)とは、大東亜戦争末期の昭和19年(1944年)から翌20年にかけ、米軍により行われた、東京都区部に対する大規模な爆撃の総称である。多くの民間人が虐殺された。
東京都は大東亜戦争中、合計106回の空襲を受けた。通常「東京大空襲」と言った場合には、昭和20年(1945年)3月10日の空襲のことを指す。
鎮火後の東京の風景、
当時の警視庁が発表した昭和20年3月10日の空襲による被害状況は以下の通りである。
・死亡者数: 83,793人
・負傷者数: 40,918人
・被災者数:1,008,005人
・被災家屋: 268,358戸
実際の人的被害はこれより多く、死亡者数は9万~10万、負傷者数は4万~11万名ほどと言われる。上記の死亡者数には、早期に遺体が引き取られた者が含まれておらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在する。
民間団体や新聞社の調査では、死亡・行方不明者数は10万人以上というものもある。
単独の空襲による人的被害が人類史上最大の空襲であったことは確実である。
東京大虐殺で使用された航空機「B-29」、出典:Wikipedija
東京大虐殺は 「ミーティングハウス2号作戦」という作戦名である。1,600~2,200メートルという「高高度からの爆撃」「夜間攻撃」「
この作戦が可能となったのは、米軍が「B-29」という高高度から爆撃可能な航空機を開発したためである。当時は高高度からの爆撃に対して、日本はほとんど対抗手段がなかった。
焼夷弾とは、焼夷剤を使用した化学兵器である。対象物を破壊する通常の爆弾と違い、火災を発生させることを主目的とするものである。
昭和20年(1945年)3月10日午前0時7分、米軍の航空機「B-29」より攻撃が開始された。
出撃した325機のうち、279機が江東区、墨田区、台東区、中央区に対して爆撃を行った。
0時20分には、港区に対しても爆撃が開始された。
この他にも、下谷区、足立区、神田区、麹町区、日本橋区、本郷区、荒川区、向島区、牛込区、小石川区、京橋区、麻布区、赤坂区、葛飾区、滝野川区、世田谷区、豊島区、渋谷区、板橋区、江戸川区、深川区、大森区が爆撃された。
東京大虐殺により、一夜にして東京市街地の東半部、当時の東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失した。
火災の煙は高度1万5000メートルにまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れた。
母子と思われる遺体、
爆撃の際に火災から逃れようと、隅田川や荒川などに架かる橋の上や、学校などの鉄筋コンクリート造の建物に避難した人が多かった。
しかし、火災の規模が非常に大規模であったため、各所で巨大な火災旋風が発生した。避難をしても、炎に巻かれて焼死してしまった人や、酸欠により亡くなってしまった人は多かった。
東京大虐殺で使用された焼夷弾は、小型の子弾が分離し大量に降り注ぐ構造となっていた。このため、子供を背負った母親や、上空を見上げた人の頭部や首筋、背中に突き刺さり、多くの人を即死させた。
火災から逃れようと、川に非難した多く人々が亡くなった。焼夷弾のガソリンなどの油により、川の水面が燃え、正に「燃える川」となった。水中に逃れた人のなかには、冬期の低い水温のため、凍死した人も多かった。
東京大虐殺で犠牲となられた方々の遺体、
東京大虐殺を行うにあたり、米軍は大正12年(1932年)に発生した関東大震災について徹底的に検証している。その結果、木造住宅が密集している東京の下町が、火災被害に対して弱いことをつきとめていた。
東京大虐殺で爆撃を行った地域は、関東大震災の延焼地域とほぼ一致している。
米軍は非武装民間人の大量虐殺をした。これは明らかな国際法違反である。