今日は、地下鉄サリン事件(正式名「地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件」)が発生した日だ。
地下鉄サリン事件とは、平成7年(1995年)3月20日午前8時ころ、東京都で発生した同時多発テロ事件である。
宗教団体『オウム真理教』によって、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)の地下鉄車内(計5編成)で、神経ガスの一種「サリン」がほぼ同時刻に散布された。
警察庁によると、死者は13人、傷病や後遺障害を負った人は約6,300人。
地下鉄サリン事件の現場のひとつとなった当時の霞ケ関駅、出典:Wikipedia
地下鉄サリン事件の被疑者(容疑者)として逮捕され、刑が確定したのは19名。首謀者はオウム真理教教祖の
首謀者の麻原が、事件の実行を決断したのは2日前の平成7年(1995年)3月18日である。その日のうちに、村井秀夫が実行役ら(一部除く)を集め、計画を説明。
犯行に使用された神経ガスの一種「サリン」は、翌19日に作られた。ただし、純度は低く35%程度だった。
平成7年(1995年)3月20日、サリン散布実行犯の
散布方法は、ビニール袋に入れたサリンを傘で付くというものだった。各実行犯は、サリンを2パック若しくは3パック持っていた。
事件発生後の8時10分、日比谷線では複数の駅で乗客が倒れていた。
8時35分、更に被害が拡大したため営団は日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。一方、千代田線・丸ノ内線では不審物・刺激臭の通報のみで、被害発生の確認が遅かったため、運行は継続されていた。
9時27分、営団は地下鉄すべての路線で、全列車の運転見合わせを決定。その後、全駅・全列車を総点検し、危険物の有無を確認した。
事件の目撃者によると、地下鉄の入り口は戦場のようだったと言う。
多くの被害者は路上に寝かされ、呼吸困難状態に陥っていた。サリンの影響を受けた被害者のうち、軽度の人は医療機関を受診せず仕事に行った人も多く、症状を悪化させてしまった人も多い。
被害者の8割ほどは目に後遺症を持っているとされる。また、癌に罹患する者も一般の者に比べて多い傾向があり、事件後かなり経ってから癌で亡くなる被害者も少なくない。
重度な脳中枢神経障害を負った被害者の中には、未だに重度な後遺症・神経症状に悩まされ、苦しめられている人も数多いる。
事件発生直後、消防や警察、自衛隊などはできる限りのことをした。
東京消防庁は化学機動中隊・特別救助隊・救急隊など多数の部隊を出動させ、被害者の救助・救命活動を行った。延べ340隊(約1,364人)が出動した。
警視庁は東京消防庁と連携の下、機動隊を出動させ、被害者の救助活動と後方の警戒にあたった。
事件後地下鉄内に残されたサリンの処理は、陸上自衛隊を中心に行われた。第32普通科連隊に、各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、広範囲で除染を行った。陸上自衛隊は、初期報道の段階でオウムによるサリン攻撃であると判断していた。
オウム真理教は地下鉄サリン事件の前年、松本サリン事件(正式名「松本市内における毒物使用多数殺人事件」)を起こしていた。死者は8人、重軽傷者は約600人のテロ事件である。
その他にも、 いくつかの殺人事件を起こしていた。
もし、公安などがオウム真理教をもっと厳しく監視することが可能だったら、この事件は起きていなかっただろう。当時の日本人は今以上にお花畑だったため、国家権力の強化を認めなかったためである。
殺人を犯すような組織を野放しにしておいてはいけない。