今日は「天安門大虐殺」の起きた日だ。
天安門大虐殺とは、平成元年(1989年)6月4日、中華人民共和国・北京市の天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、人民解放軍が武力行使を行い、多数の死傷者を出した事件である。一般的には「天安門事件」とか「六四天安門事件」と呼ばれている。
死傷者数については明らかにされていない。共産党の公式発表では、事件による死者は319人となっている。一方、英国政府の公文書では、最低に見積もっても一般市民の10,000人以上が人民解放軍により殺害されたと報告されている。
ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長、出典:Wikipedia
昭和60年(1985年)3月、ソビエト連邦共産党書記長にミハイル・ゴルバチョフが就任する。国家運営を立て直すために「ペレストロイカ」を表明、同国の民主化を進めていく。
昭和61年(1986年)5月、支那共産党中央委員会総書記に胡耀邦が就任する。同氏は言論の自由化を推進、国民から「開明の指導者」と言われ、国民から支持された。民主化への期待が高まる。
これに対して、鄧小平(とう しょうへい)ら党内の長老グループは、共産党による一党独裁を揺るがすものであり、自分達の地位や利権を損なうものだと反発する。
昭和62年(1987年)1月16日、胡耀邦は政治局拡大会議で辞任を強要、失脚する。そして、事実上の軟禁生活となる。
平成元年(1989年)4月15日、胡耀邦は心筋梗塞で死去する。
これが「天安門大虐殺」の発端となる。各地で民主化デモが発生。翌月には、全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くまで膨れ上がる。
平成元年(1989年)5月15~17日にかけ、ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長が北京を訪問する。昭和30年代前半より続いていた両国の対立終結を表明するために。
このため、世界中から多くの報道陣が北京入りをしていた。
戒厳令の布告を決定した鄧小平(とう しょうへい)、出典:Wikipedia
平成元年(1989年) 5月19日午後10時、共産党は戒厳令布告を発表する。
民衆はこれに反発。 23日には戒厳令布告に抗議するため、北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、事態は沈静化しないばかりか益々拡大して行く。
厳しい報道管制も敷かれる。日本など西側諸国のテレビ局による生中継のための回線は共産党によって次々と遮断されていった。
6月に入ると、人民解放軍の部隊が北京に集結する。
6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結。完全武装した兵士も配置された。そして...
体を張って戦車の進行を阻止しようとした「無名の反逆者」王維林さん 、出典:中国 - (大紀元)
平成元年(1989年)6月4日、天安門大虐殺が起きてしまう。
その模様は米国のCNNや英国のBBCなどにより、世界中に中継される。
映像には、無差別発砲により負傷した民衆の姿があった。戦車にひき殺され、ミンチとなった遺体もあった。
また、人民解放軍の戦車の前に1人の若者が飛び出し、その走行を阻止しようとした男性の映像もあった(無名の反逆者)。
中華人民共和国はこういう国だ。
この真実を一人でも多くの日本人が知る必要がある。
そして、その国に味方する日本人がいることも。