今日はミッドウェー海戦が起きた日だ。
ミッドウェー海戦とは、昭和17年(1942年)6月5~7日、ミッドウェー島付近において、大日本帝国海軍(以下「日本海軍」)と米国海軍の間で行われた海戦である。
ミッドウェー島攻略をめざす日本側に対して、米国側が迎え撃つかたちで行われた。
海戦に参加した兵力は以下のとおり。
日本:空母4,戦艦2,重巡洋艦2,軽巡洋艦1,駆逐艦12,艦載機248,水上機16
米国:空母3,戦艦0,重巡洋艦7,軽巡洋艦1,駆逐艦15,艦載機233,陸上機127,潜水艦16
両軍の損害は以下のとおり。
日本:空母4沈没、重巡洋艦1沈没、重巡洋艦1大破、駆逐艦1中破、戦死3,057名
米国:空母1沈没、駆逐艦1沈没、戦死307名
日本海軍は主力空母4隻とその搭載機約290機の全てを失い、機動部隊が壊滅した。なお、当時の海軍戦力で最も重要なのは、空母とその搭載機である。
炎上するミッドウェー基地、出典:Wikipedia
昭和17年(1942年)5月27日、南雲忠一(なぐも ちゅういち)中将率いる第一航空艦隊(通称「南雲機動艦隊」)が、広島湾からミッドウェー島攻略(MI作戦)のため出撃する。
6月5日午前1時30分、ミッドウェー島を攻撃するため、南雲機動艦隊の空母4隻から第攻撃隊が発艦する。友永丈市大尉が指揮した攻撃隊は一定の成果をあげる。しかし、成果が不十分とみた友永大尉は、「第2次攻撃の必要があり」と艦隊に打電する。
このとき、南雲機動艦隊は艦載機の半数に陸地攻撃用の爆弾を、もう半数に敵艦隊攻撃用の魚雷を装備していた。
ミッドウェー島に第2次攻撃を仕掛けるのであれば、魚雷を爆弾に変えなければならない。これには時間がかかる上、敵艦隊が出現したら対抗できなくなる危険があった。だが、南雲中将ら司令部は兵装の転換を決断する。
兵装の換装作業が終了しようとしていた時、索敵機から「敵空母発見」の知らせが入った。
第二航戦司令官の山口多聞(やまぐち たもん)少将は、陸地攻撃用の爆弾のまま戦闘機を発艦させ、敵艦隊を攻撃すべきと訴えた。
しかし、司令部はこの進言を却下した。敵艦隊に十分なダメージが与えられない可能性が高いと考えられたからだ。
南雲中将ら司令部は、帰還した第一次攻撃隊を収容しつつ、艦載機の兵装をもう一度爆弾から魚雷に転換するよう命じた。
魚雷への換装作業を終え、発艦準備が整い、艦載機が出撃しようとしたその時だった。
米軍機の急降下爆撃が南雲機動艦隊に襲いかかった。「赤城」「加賀」「蒼龍」が被弾、炎上した。
わずか数分で、日本海軍は主力空母3隻を失った。
爆弾を受け炎上する空母「飛龍」、出典:Wikipedia
残った空母は「飛龍」1隻だけだった。
その後、残りの攻撃機を集めて米国海軍への反撃を開始。米空母「ヨークタウン」を大破に追い込んだ。
しかし、米軍機の空襲で大破、沈没した。
南雲中将ら司令部の判断が悪かったこと以外にも、多くの敗因があった。日本側の暗号が解読されていたこと、味方どうしの情報の共有が不十分だったこと、無謀ともいえる作戦立案...
日本人はミッドウェー海戦、いや、大東亜戦争の敗因を冷静に分析する必要があるのではないのか?
戦争について知らなければ、それを事前に抑止することも、平和を維持することもできない。