中曽根康弘元総理が、令和元年11月29日、ご逝去なされた。
中曽根氏は昭和57年(1982年)から約5年間、内閣総理大臣の重責を担われた。在任中は強いリーダーシップを発揮なされた。
当時の日米関係は最悪の状態だった。中曽根氏はレーガン米大統領との強い信頼関係の下、強固な日米同盟を確立した。現在の日米関係があるのは中曽根氏の功績が大きい。
内政においては行政改革を断行。国鉄や電電公社、専売公社、日本航空の民営化を達成した。
中曽根総理、日本のためにご尽力頂きありがとうございました。
国民として、心から哀悼の意を表します。
海軍将校当時の中曽根康弘元総理、原典:群馬で生まれ育った男のブログ
中曽根総理が行った政策のなかで、筆者は『国鉄分割民営化』が印象に残っている。
建前上は「事業の合理化」を目的とした政策であるが、同時に「左翼の弱体化」を狙ったものでもあった。
あまり知られていないが、行政改革や経済政策には安全保障政策という側面を持っているものが多い。断行しようとすると、左翼が抵抗するものがそうである。
国鉄とは、日本国有鉄道法に基づき日本国が運営していた国有鉄道のことである。正式名称を「日本国有鉄道」という。
経営形態は政府が100%出資する公社(特殊法人)だった。
昭和24年(1949年)6月1日、国鉄は鉄道省から分離され、独立採算制の公共企業体として発足した。
昭和39年(1964年)度、初めて単年度収支で8300億円の赤字となった。
赤字はその後、更に増えていった。自動車(トラック)による輸送が増えたため需要が伸びなかったこと、当初から採算の見込めない赤字ローカル線の建設が続けられたことが主な理由だ。
昭和55年(1980年)、政府は自主再建プランとして「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)」を成立させた。これにより、人員削減や不採算路線の新規建設凍結などが行われたが、すでに焼石に水だった。
この時点で国鉄の債務は30兆円以上あり、利息は年1兆円ほどと思われる。経営状態は全く改善できなかった。国鉄職員は事実上公務員である。役人が商売をして成功した事例は、古今東西、ほとんどない。
昭和62年(1987年)4月1日、国鉄は分割民営化された。6つの地域別の「旅客鉄道会社」と1つの「貨物鉄道会社」などに分割され、民間企業となった。
国鉄職員数は長い間40万人強で推移していた。民営化時には、半分以下の20万人まで削減された。現在、JR7社の従業員は約18万人である。
国鉄は明らかに人員余剰だった。多くの労働組合員がおり、主に日本社会党を支持していた。中核派や革マル派などの極左も紛れ込んでいた。
日本社会党は平成58年(1983年)の総選挙では112名の当選者をだし、第2党だった。近年、社民党は総選挙で2人当選させるのが精一杯だ。
左翼陣営は結束して、国鉄分割民営化に強く反対していた。
昭和60年(1985年)11月29日、中核派が「国電同時多発ゲリラ事件」を起こし、首都圏を中心に国鉄は1日ほど麻痺状態となった。
それでも、中曽根総理(内閣)の決意は変わらなかった。国民世論も国鉄分割民営化を強く支持した。
昭和61年(1986年)12月4日、「日本国有鉄道改革法」が成立し、国鉄の分割民営化が決定した。賛成したのは自民党や公明党、民社党などで、反対は日本社会党(社民党)や日本共産党など。
中曽根総理が国鉄分割民営化を断行しなければ、日本は社会主義の性格が強い国となっていた。社民党や立憲民主党など左翼政党は、今より勢力があっただろう。
国鉄分割民営化は日本の大きな分岐点になったと筆者は思う。もちろん、日本は良い方の道を選択した。