日本国際問題研究所は26日、竹島(島根県隠岐の島町)で日本人が行っていたアシカ猟などに関する証言の動画を、YouTube に公開した。
竹島は地元漁民からアシカ猟の安定化を求める声が高まったため、明治38年(1905年)に日本の領土となった。当時、異議を唱えた国はなかった。
証言者は佐々木恂(じゅん)さん。87歳。隠岐の島町在住。明治期における竹島でのアシカ猟の先駆者とされる石橋松太郎(故人)さんの孫。
証言者へのインタビューは、日本国際問題研究所からの依頼をうけた、島根大学の舩杉力修(ふなすぎ りきのぶ)准教授(歴史地理学)が担当した。
公開された動画には、祖父から聞いた話や思い出などが、約14分間にわたり収録されている。
佐々木恂(じゅん)さんは8人兄弟の6番目。
祖父の石橋松太郎(故人)から、竹島に関する話を何度も聞かされていた。
竹島周辺でアワビ漁を行う際には、専門の漁師がいなかったため、韓国から海女7人を雇った。この費用の捻出には、非常に苦労したという。
商売としては上手くいかなかった。
祖父は竹島周辺でアシカ猟をしていた。
アシカの皮は座布団にして、油はろうそくがわりにした。肉は硬かった。
祖父は、アシカの皮を使った敷物を気に入っており、常に持ち歩いていたという。
石橋松太郎は、明治36年(1903年)から明治37年(1904年)年にかけ、竹島およびその周辺でアシカ猟を行っていた。従事者は松太郎を含め4~5人。
明治36年には2049円50銭の収入があり、必要経費を差し引くと700円36銭の黒字だった。明治37年は4280円の収入があり、2088円9銭の黒字。
明治38年の給与所得者の平均年収は291円というデータがある。
情報元:JIIA -日本国際問題研究所-
祖父は、こうじと米を竹島まで持って行って酒を造っていたという。竹島の酒はよく売れた。
日露戦争(1904~1905年)のときには、竹島へロシア兵7名が漂着したという。4名は死亡していたが、3名は生存。
生存者は連れて帰った。しかし、数日後に亡くなってしまったため、石橋家の墓(自分の家の墓)に葬ったという。
佐々木恂さんは、国のため、島根県のため、隠岐の島町のために、お手伝いできたことを誇りに思っているという。
佐々木恂さんは「竹島は日本の領土に間違いない」と断言した。