通州事件(つうしゅうじけん)...
昭和12年(1937年)7月29日、支那の通州(現在の北京市通州区)で、冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)保安隊が現地日本人を虐殺した事件である。
陸軍大学の「支那事変初期ニ於ケル北支作戦史要」によると、通州在留日本人は385名。うち223名(内地人117名、半島人106名)が虐殺された。
当時、朝鮮半島は日本の一部だった。
通州事件には2つの特徴がある。
- 現地の日本人を守る立場にあった、冀東防共自治政府保安隊が虐殺を行った。
- 殺害方法が見るも無残だった。
以下、衝撃的な内容あり。
冀東防共自治政府とは、昭和10年(1935年)から昭和13年(1938年)までの間、支那河北省に存在した政権である。
日本との関係は友好的だった。
昭和12年(1937年)7月7日、日本軍と国民党軍が軍事衝突した「盧溝橋事件」が勃発した。同事件はすぐに停戦協定が結ばれた。
その後、支那大陸では、日本人に対するテロや殺害が相次いでいた。
通州には日本軍が駐留していた。
しかし、通州事件当日、本体は攻撃に向かっており、通州には留守部隊しかいなかった。
留守部隊には、ほとんど戦闘力がなかった。日本軍は冀東防共自治政府を信用していた。
昭和12年(1937年)7月29日午前2時、冀東防共自治政府保安隊は、通州に残っていた留守部隊(日本軍)に攻撃を開始した。
留守部隊はすぐに全滅。その後、保安隊は現地日本人の虐殺を始めた。
翌日、通州駐留日本軍の本体が戻ってくることを知ると、彼らは逃げて行った。
通州事件の犠牲者の遺体、身元が判明しているため目にマスク処理、出典:Wikipedia
通州事件で冀東防共自治政府保安隊(支那人部隊)が行った日本人虐殺は、猟奇的なものである。
昭和22年(1947年)4月25日に行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)でも取り上げられた。萱嶋高中将、桂鎮雄少佐、桜井文雄少佐が証言をしている。
萱嶋高中将の証言
(冒頭略)
旭軒とか云う飲食店を見ました。そこには四十から十七、八歳迄の女七、八名は皆強姦され、裸體で陰部を露出した儘射殺されて居りました。其の中四、五名は陰部を銃剣で突刺されていました。
(中略)
錦水楼と云う旅館は凄惨でありました。同所は危急を感じた在通州日本人が集まった所でありましたものの如く大量虐殺を受けております、玄関、入口附近には家財、器具破壊散乱し目ぼしきものは殆ど掠奪せられ、宿泊していた男子四名は座敷で射殺されていました。錦水楼の女主人や女中は数珠繋ぎにされ手足を縛された儘強姦され、遂に斬首されたと云うことでした。
(以下略)
桂鎮雄少佐の証言
(冒頭略)
(旅館錦水楼にて)次に帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり或はうつぶし或は上向いて死んでおりここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが闘った跡は明瞭で男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣の様でありました。女二人は何れも背部から銃剣をつきさされた跡が歴然と残つて居ました。
(以下略)
桜井文雄少佐の証言
(冒頭略)
「日本人は居ないか」と連呼し乍ら各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等から彼所此所の塵、埃箱の中や壕の内、塀の蔭等から続々這い出して来ました。
2.某飲食店内には一家悉皆首と両手を切断惨殺されて居るのを目撃しました。婦人と云う婦人は十四五歳以上は悉く強姦されて居りまして全く見るに忍びませんでした。
(以下略)
通州事件の犠牲者の遺体、 出典:Wikimedia Commons
支那大陸において、通州事件は特別な出来事ではない。同様の事件が、今まで何度も起きている
昭和20年(1945年)には葛根廟事件(かっこんびょうじけん)、翌年には通化事件(つうかじけん)が起きている。両事件では、通州事件より多くの日本人が虐殺されている。
支那大陸では現在も、ウイグルやチベットなどで惨い人権弾圧が続いている。
なぜか、日本の「人権派」はこれを指摘しないが。
通州事件を、一人でも多くの日本人に知ってもらいたいものである。