素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

【皇紀】2680年9月27日

昭和20年9月27日、昭和天皇ダグラス・マッカーサーの初会談が行われた。

日本人なら、知っておかなければいけない出来事である。

 

同年8月14日、日本政府は米国・英国・中華民国ソ連の4国に対して、降伏を求めた「ポツダム宣言」の受諾を通告。

翌15日には、昭和天皇による「大東亜戦争終結詔書」いわゆる「玉音放送」により、この事実が国民に公表される。

9月2日、日本政府は降伏文書(休戦協定)に調印。

 

会談が行われた時、マッカーサーは日本の占領政策を実施した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のトップだった。

同年6月29日に米・ギャラップ社が天皇をどうすべきか調査したところ、米国民の33%は処刑、17%は訴追、11%は終身刑、9%は流刑と回答。

米国議会には、天皇を戦犯として裁く決議案が提出されていた。

会談には、昭和天皇の命が、そして日本の運命がかかっていた。

 

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ダグラス・マッカーサー昭和天皇、出典:Wikipedia

 

昭和20年(1945年)9月27日、昭和陛下はマッカーサーが居住していた駐日米国大使館を訪問した。

午前10時、昭和陛下を乗せた車が米国大使館公邸の門を潜る。マッカーサーではなく、2人の副官が出迎えた。

マッカーサーはレセプションルームにいた。そして、会見が始まる前に撮影されたのが上の写真である。

 

会談が始まると、昭和陛下はマッカーサーに以下のように言った。

敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。

引用:侍従長の回想(著者:藤田尚徳)

 

マッカーサーは、昭和天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服したという。

マッカーサーの態度は一変する。

会見は15分の予定だったが、35分ほどに及んだ。昭和天皇が帰るときには、予定を変更して玄関まで出て見送った。

 

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同年11月、米国政府はマッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請した。マッカーサーは「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答した。

そればかりか、マッカーサーは食料不足が深刻だった日本に対して、支援を行うよう米本国に要請していた。これにより、日本は食料支援を受けることができた。この支援がなかったら、相当数の餓死者がでていた。

マッカーサーが解任されたのは、この食料支援が原因だとも言われている。

 

昭和陛下の覚悟がなかったら、現在の日本はない。いや、あなたも生まれてこなかったかもしれない。

この出来事は教科書に載せるべきだ...と筆者は思う。