素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

【皇紀】2680年12月1日

今日は、御前会議でハル・ノートによる米国の要求は受け入れられないとして対米英蘭開戦を決定した日だ。

御前会議とは、大日本帝国憲法下において、天皇臨席の下で重要な国策を決めた会議である。

 

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御前会議の直前の様子、出典:Wikipedia

 

昭和16年(1941年)8月、米国・英国・中華民国・オランダは、石油の対日全面禁輸を強行した。いわゆる「ABCD包囲網」である。

日本は石油の約8割を米国から輸入していた。国内の石油貯蓄分は、平時で3年弱、戦時で1年半という状況だった。

 

同年11月26日、米国から日本に交渉文書「ハル・ノート」が提示される。

ハル・ノートというのは通称で、米国側交渉担当のコーデル・ハル国務長官に由来する。正式名称は「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」という。

ハル・ノートの主な内容

ハル・ノートの内容を簡単に言うと「日本は日露戦争前に戻れ」である。そう、ロシアの脅威に脅えていた頃に。

更に、同盟国との条約も反故にしろと迫っている。

 

日本は対米開戦を避けるため、譲歩に譲歩を重ねていた。

米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は、当時行われていたヨーロッパ戦線(第二次世界大戦)に英国の味方として参戦したかった。しかし、彼は戦争をしないことを公約に当選していた。

このため、ドイツと同盟関係にある日本に圧力をかけ、日本から攻撃を受けたことを理由にヨーロッパ戦線に参戦しようと考えていた。

 

同年12月8日、日本は英国と米国に対し宣戦布告する。

 

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東條内閣の閣僚、出典:湘南の暇人 日日耗日(ひびこうじつ)

 

対米英蘭開戦の決断をしたのは、東條英機内閣である。これが理由で、東条英樹はアドルフ・ヒトラーと並ぶ極悪人というレッテルを貼られている。

前総理だった近衛文麿は直前に辞任している。

 

歴史に”もし”はないが、日本がハル・ノートを受け入れていたらどうなっただろうか?

筆者は、米国は更に無茶な要求を日本に突き付けたと思う。

 

確実に言えることは、「日本の対米英蘭開戦は自衛のためだった」ということである。

この事実を一人でも多くの日本人に知ってもらいたいものである。