外務省は23日、昭和62年(1987年)~平成2年(1990年)の外交記録26冊を一般公開した。
天安門事件に伴い支那を共同制裁することについて、日本が反対していたことが明らかとなった。
事件の翌月に開かれた「アルシュ・サミット」では、支那を孤立させないため、日本が各国に働きかけていたこともわかった。
平成元年(1989年)6月4日、天安門事件(六四天安門事件)が発生した。
民主化を要求して北京の天安門広場で集まっていた学生らに対し、人民解放軍が武力行使し、多数の死傷者がでた。
正確な死者数は不明。支那政府は319人と発表したが、英国政府は10,000人を超えるとしている。
天安門事件が発生した 6月4日付けの「中国情勢に対する我が国の立場」という文書では、同事件を「人道的見地から容認出来ない」としつつも、支那の国内問題としていた。
西側先進諸国が支那を共同制裁すること等に「日本は反対」と明記されていた。
6月21日付の「今後の対中経協政策について」という文書では、日本の経済協力は「中国の近代化、開放化」を支援してきたとあった。
その上で、天安門事件が発生しても、「近代化、開放化の大筋が維持される限りこれを変更すべき理由はなし」と明記されていた。
天安門事件の翌月にフランスのパリ郊外で開かれた「アルシュ・サミット」では、日本が支那のために努力していた。
議長国のフランスをはじめとする各国は、支那を厳しく非難する政治宣言の採択を目指した。これに対し、日本は穏当な表現を目指して各国に働きかけていた。
宇野宗佑総理は、議長国フランスの交渉担当ジャック・アタリ氏を「中国がみずから孤立化しないような改革を進める必要がある」と説得した。
結果、政治宣言での支那に対する批判は和らいだ。例えば、当初案の「野蛮な鎮圧」という記述は「激しい抑圧」に修正された。
情報元:外交記録の公開|外務省
平成4年(1992年)、天皇皇后両陛下の支那訪問が実現する。これを機に、支那は天安門事件での危機から立ち直る。
平成元年(1989年)には日本の1/8しかなかった支那のGDP(国内総生産)は、令和2年(2020年)には日本の3倍近くにまで激増する。
マキャベリは著書『君主論』の中で「隣国を援助する国は滅びる」と断言している。
日本がそうならなければいいのだが...