今日は支那共産党が指導する人民解放軍総司令部が、チベットを除く支那本土全域の解放完了を宣言した日だ。
つまり、支那共産党が武力で支那大陸を奪い、俺たちのものだと宣言した日だ。
支那共産党結党後まもなく大英帝国で発効された中華民国の地図、出典:古物商(kowtarow1201)の古地図うんちくブログ
大正10年(1921年)7月23日、支那共産党は毛沢東らにより結党された。この時の党員は57人というのが定説。
コミンテルンからの援助(主に資金援助)を受け、支那共産党は勢力を拡大していった。
当時の支那大陸は中華民国という国で、支那国民党が権力を持っていた。支那共産党は当初、支那国民党とは良好な関係だった。
昭和2年(1927年)、上海クーデターが発生。両者の関係は悪化し、戦争状態となる。これを「第一次国共内戦」という。
軍事力や経済力で劣っていた支那共産党は、崩壊寸前にまで追い込まれる。
しかし!
昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件が発生。これを機に、中華民国と日本の戦争に突入する(しばらくは両国とも宣戦布告をしなかったので事変)。
支那共産党と支那国民党は、停戦。支那共産党はギリギリのところで命拾いする。
日本との戦争は支那国民党が戦った。その間、支那共産党は日本とは戦わず、力を温存していた。
昭和20年(1945年)、中華民国と日本の戦争が終わった時、支那共産党と支那国民党の力の差は縮まっていた。
昭和21年(1946年)6月26日、支那共産党と支那国民党による内戦が再び勃発する。これを「第二次国共内戦」という。単に「国共内戦」という場合にはこちらを指す。
序盤は支那国民党が有利だったが、大量の通貨(法幣)を発行のためインフレが発生。支那国民党は支持を失っていった。
昭和23年(1948年)9月から翌年1月にかけ、遼瀋戦役(9~11月)、淮海戦役(11月~翌年1月)、平津戦役(北京と天津の攻防戦、11月~翌年1月)と支那共産党が大勝し、戦況はほぼ確定する。これを「三大戦役」という。
昭和24年(1949年)1月31日、支那共産党は北京を制圧する。支那国民党が降伏したことにより無血入城。
4月24日には、国民党(国民政府)の首都南京も制圧。
その後も、漢口(5月16日)、西安(5月20日)、上海(5月27日)、青島(6月12日)と支那国民党の拠点を次々と制圧していった。
北京の天安門で中華人民共和国の建国を宣言する毛沢東、出典:sina 新闻搜索
昭和24年(1949年)10月1日、支那共産党は中華人民共和国を建国する。この時点ではまだ、支那国民党は華南三省と西南部三省を支配していた。
同年12月までには、東トルキスタン共和国も制圧。中華人民共和国に併合した。これを「新疆(しんきょう)侵攻」という。
昭和25年(1950年)1月31日、人民解放軍総司令部はチベットを除く支那本土全域の解放完了を宣言する。
支那国民党の拠点は支那大陸にわずかに残っていたが、制圧されるのは時間の問題だった。
支那共産党は支那国民党に代わり、支那大陸の新たな統治者となった。
支那共産党は今まで、地球上で最も多くの人を殺した組織である。第二次国共内戦だけでも、約100万人が犠牲となっている。
現在、支那共産党(中華人民共和国)の力は強大となってしまった。日本は結果的に、これに協力してしまった。
同じ過ちを繰り返すことは許されない。