素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

【皇紀】2681年2月26日

今日は「二・二六事件が起きた日だ。

昭和11年(1936年)2月26日、大日本帝国陸軍青年将校らが1,500人弱の下士官・兵を率いて起こしたクーデター未遂事件。

総理大臣官邸などを襲撃し、高橋是清大蔵大臣ら9人を殺害した。

 

クーデター:暴力的な手段によって引き起こされる政変

将校:軍隊の階級で少尉以上
下士官:同じく伍長から上級曹長
兵:同じく兵長以下

 

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二・二六事件の首謀者のひとり栗原安秀陸軍歩兵中尉(中央マント姿)、出典:Wikipedia

 

当時、日本には大日本帝国陸軍大日本帝国海軍という軍隊組織があった。この2つは全く別の組織。

 

陸軍内には、皇道派(こうどうは)と統制派(とうせいは)の2大派閥があった。

皇道派天皇親政の下で国家改造(昭和維新)を目指していた。ソ連を攻撃する必要性(北進論)を主張していた。

統制派は合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指していた。日本は南方に進出すべでだ(南進論)と主張していた。

 

二・二六事件は、皇道派青年将校らが中心となって起こした事件である。

 

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内務省前を占拠した兵士、出典:Wikipedia

 

昭和11年(1936年)2月26日、陸軍将校らはクーデター(二・二六事件を決行した。彼らはいくつかのグループに分かれ、計16カ所を襲撃した。

午前5時10分頃、栗原安秀中尉ら約300人が総理官邸を襲撃した。

ほぼ同時刻、高橋大蔵大臣私邸、斎藤内大臣私邸、鈴木侍従長官邸、陸軍大臣官邸、警視庁も襲撃。

その後、大手新聞社や標的とした人物の私邸を襲撃した。

 

高橋是清大蔵大臣、斎藤実
内大臣渡辺錠太郎
教育総監松尾伝蔵
内閣総理大臣秘書官事務取扱(私設秘書)の4人に加え、警官5人を殺害。

標的とされていた岡田啓介総理大臣は難を逃れた。

 

陸軍内では「同士討ちは避けるべきだ」という意見が大勢を占めていた。

翌27日なっても、クーデターを起こした青年将校らを「反乱部隊」とはしなかった。彼らに同情的な意見も多く、鎮圧を躊躇していた。

 

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昭和天皇、出典:Wikipedia

 

昭和天皇は、自らが近衛師団天皇と皇居を護衛する師団)を率いて反乱軍を鎮圧すると表明した。

陸軍は正気を取り戻し、海軍と共にクーデター鎮圧を始める。

 

翌28日、クーデター参加部隊を「反乱部隊」とする命令が伝えられ、兵士たちにもとの部隊に戻るようにとの天皇の命令が下された。

 

翌29日、クーデターは終結した。

首謀者の青年将校らのほとんどが投降し、2人が自決した。

その後、関係者19名が死刑となった。

 

二・二六事件は日本に大きな影響を与えた。

陸・海軍大臣の就任資格を現役の大将・中将とする「軍部大臣現役武官制」が復活した。

更に、北進論より南進論が優勢となった。

その他にも...

 

政府は現在も、二・二六事件の情報を明らかにしていない。だから、全容はわからない。

ただ、首謀者のなかにソ連のスパイが紛れ込んでいたのは事実である。スパイの人数や影響力は不明だが。

 

筆者は「二・二六事件は日本の危機で、内戦が起きる可能性すらあった」と思う。

昭和天皇がいなければ、取り返しのつかない事態になっていたような気がする。