今日は「1959年のチベット蜂起」が起きた日だ。
昭和34年(1959年)3月10日、チベット人がチベットの首都ラサで、支那共産党の抑圧に対する蜂起を行った。
チベット亡命政府(ガンデンポタン)によると、蜂起に伴う様々な出来事により、約86,000人のチベット人が死亡したという。
チベット人にとって、3月10日は「チベット民族蜂起記念日」とされている。
昭和24年(1949年)10月1日、中華人民共和国が支那共産党により建国される。
この時のチベットは、ダライ・ラマを長とするチベット政権「ガンデンポタン」が統治していた。
昭和25年(1950年)10月、人民解放軍がチベット侵攻を開始。翌年にはチベット全土を制圧し、チベットは支那共産党の支配下となってしまう。
以降、支那共産党(中華人民共和国)に対する、チベット人の不満は増大していく。
昭和34年(1959年)3月1日、ダライ・ラマ14世のもとに「人民解放軍司令部で観劇をしないか」という誘いが届く。観劇は3月10日に行われることとなった。
3月9日、人民解放軍は「ダライ・ラマ14世が観劇に訪れる際には、従来の武装警備隊を同行させないこと」と要求する。この事はすぐに知れ渡る。
3月10日、支那共産党の抑圧に対し多数のチベット人が決起した。いわゆる「1959年のチベット蜂起」である。
約30万人のチベット人が、ダライ・ラマ14世が連れ出されることを防ぐため、宮殿を取り囲んだ。
3月17日、ダライ・ラマ14世の宮殿の近くに2発の砲弾が着弾する。
その夜、ダライ・ラマ14世は少数の護衛と共にインドへ亡命する。
3月19日夜、人民解放軍とチベット軍が衝突する。チベット軍は数でも武装でも劣っていたため、戦闘は2日で終了。この間、人民解放軍はラサの主な僧院などを砲撃。多数のチベット人を殺害した。
戦闘終了後も、ラサに残ったダライ・ラマ14世のボディガードや武器を隠し持っていたチベット人達を公開処刑。数1,000人のチベット僧侶が逮捕・処刑された。
チベット亡命政府(ガンデンポタン)によると、蜂起に伴う様々な出来事により、約86,000人のチベット人が死亡したという。
支那共産党(中華人民共和国)はチベットを侵略し、チベットの文化や伝統を破壊し、多くのチベット人を殺害した。
普段は些細なことでも「人権侵害だと!」と騒ぐ人達の多くは、なぜか、この問題にはダンマリだ。