今日はフォークランド紛争が起きた日だ。
昭和57年(1982年)3月19日~6月14日、南大西洋上の英国領フォークランド諸島を巡り、英国とアルゼンチンの間で紛争が起きた。
アルゼンチン軍が上陸したが、英国は軍隊を派遣し奪回した。
フォークランド諸島は、アルゼンチン・パタゴニアから約500km離れたアルゼンチン海上にある。
東フォークランド島と西フォークランド島の隣接した2つの大きな島、および、776の小さな島からなる。
総面積は12,173km2で、長野県と同じくらい。
首都はスタンリー(東フォークランド島)。人口は約3,400人。
サウスジョージア島、人口は約20人、出典:Wikipedia
昭和57年(1982年)3月19日、アルゼンチン海軍の艦艇がフォークランド諸島から約1,000km東にある「サウスジョージア島」に寄港。英国に無断で、民間人に装った海兵隊を上陸させた。
英国側が海兵隊を派遣し、戦闘となった。
4月3日、戦闘は終了。英国海兵隊23人全員が捕虜となった。
3月30日、アルゼンチン軍約900人がフォークランド諸島に侵攻を開始。
4月2日には、首都スタンリーを制圧。フォークランド諸島の英国軍は全面降伏した。
4月18日、英国はサウスジョージア島奪還作戦を開始。
4月25日、英国は奪還に成功。アルゼンチン軍が白旗を揚げて投降した。
4月末からは、航空機や軍艦による戦闘が各所で行われ、両軍に多くの損害がでた。
序盤はアルゼンチン軍が有利だったが、徐々に戦況は英軍に傾いていった。
6月7日、フォークランド諸島に英国軍が上陸。
6月14日には、アルゼンチン軍が正式に降伏し戦闘は終結した。
フォークランド紛争は両軍共に多くの損害がでた。
英国側は死者255人、負傷者775人。駆逐艦2隻、フリゲート2隻、揚陸艦2隻、コンテナ船1隻、航空機34機。
アルゼンチン側は死者649人、負傷者1,657人。軽巡洋艦1隻、潜水艦1隻、哨戒艇2隻、航空機約100機。
当時の英国首相マーガレット・サッチャーは、侵攻してきたアルゼンチン軍と戦う決断をした。
もし尖閣諸島に人民解放軍が侵攻してきたら、日本の政治家はどういう決断をするだろうか...