昭和35年(1960年)6月19日午前零時、デモ隊13万人(警察発表)が徹夜で国会を包囲するなか、新日米安保条約が参議院の議決がないまま自然成立した。
新日米安保条約とは、「現在の日米同盟」のことで、在日米軍が日本に駐留することなどを定めた日米の二国間条約。
正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」という。
新日米安保条約に反対し国会を取り囲んだデモ隊(昭和35年6月18日)、朝日新聞社「アルバム戦後25年」より
昭和26年(1951年)9月8日、米国のサンフランシスコで、日本と連合国48ヶ国との間に「日本国との平和条約」、通称「サンフランシスコ平和条約」が締結された。
日本は主権を回復。日本を占領していた連合国軍は、日本から出ていかなければならなくなった。
同時に「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」、通称「旧日米安全保障条約」も署名された。これにより、米軍のみは継続して日本に駐留する事が可能となった。
旧日米安全保障条約は、米軍に基地を提供する為の条約だった。
このため、岸信介内閣(自民党)は米国と交渉をし、日米共同防衛を義務付けた平等な条約に改正しようと努力していた。
これに反対した一連の闘争が、いわゆる「安保闘争」である。
昭和35年(1960年)1月19日、岸信介総理らは「新日米安保条約」に署名した。
条約の批准(最終的な同意)には、国会の承認を経る必要がある。なお、衆議院と参議院が異なる議決をした場合には、衆議院の議決が優先される。
新日米安保条約署名を知った、日本社会党(現:社民党)や日本共産党などの左翼は「戦争になる!」とし猛反発。
5月19日夜、自民党は条約案の強行採決を試みた。日本社会党議員らは、衆議院議長を監禁するなどして抵抗した。
これを機に、安保闘争は広がりをみせた。
衆議院で条約案が採決した直後、朝日新聞社「アルバム戦後25年」より
6月10日には東京国際空港(羽田空港)で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日したハガティ大統領報道官一行が、デモ隊に包囲されて動けなくなった。一行は米海兵隊のヘリコプターで救出された。
いわゆる「ハガチー事件」である。
6月15日には国会前で、デモ隊が機動隊などと衝突。デモに参加していた東大生の樺美智子が圧死した。
この時、国会前のデモ隊の人数は、主催者発表で33万人、警視庁発表で約13万人という規模だった。
岸信介総理らは殺されかねない状態だったが、自衛隊の治安維持出動はなかった。いや、正確にはできなかった。
6月19日午前零時、新日米安保条約は参議院の議決がないまま、自然成立した。
6月23日、岸内閣は混乱の責任をとり総辞職を表明した。
岸内閣総辞職前日の7月15日、岸総理は暴漢に襲撃され重傷を負った。
日比谷公園から国会に向かうデモ隊(昭和35年6月15日)、朝日新聞社「アルバム戦後25年」より
歴史に「もし」はないが、現在の日米同盟が無かったら、日本はどうなっていただろうか?
ソ連の脅威から、日本を守ることができただろうか?
現在においては、支那の脅威から日本を守ることができるだろうか?
筆者は、やや反米思想である。
しかし、岸信介総理らが命懸けでつくってくれた日米同盟は、絶対に破棄してはいけないと思う。