素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

【皇紀】2681年9月10日

今日は津別事件が起きた日だ。

昭和22年(1947年)9月10日、北海道・津別町で発生した的屋在日朝鮮人の抗争事件。

 

津別町(つべつちょう):北海道オホーツク総合振興局管内の網走郡にある町。面積は716㎢。令和3年7月末現在の人口は4,398人。

的屋(てきや):縁日などに人通りの多い場所で、露店や興行を営む業者を指す言葉。

 

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津別町の位置

 

北海道では大東亜戦争終結以降、在日朝鮮人(在日支那人も含む)が露店を荒らすようになっていた。

彼等の横暴に対して、的屋側は敗戦国民ということもあり、その都謝罪するという状況が続いていた。

 

昭和22年夏には、在日朝鮮人の横暴は更に増していた。的屋側の不満は頂点に達した。

この状況が続けば、民衆は露天に集まらなくなる。

危機感を抱いた的屋側は、道内最後の夏祭りが開かれる津別神社で、朝鮮人に反撃を加えることを決めた。道内だけでなく、本州の的屋も呼び寄せた。

 

昭和22年(1947年)9月10日、津別神社で夏祭りが行われた。かつてないほどの露店が並び、多くの人が訪れ、盛況をきわめていた。

午前11時30分頃、渡辺吉夫が営む針回しの露店に、酒気を帯びた朝鮮人3人が来た。彼らは遊戯料を支払わずに遊んだうえ、露店をひっくり返した。

この場に居合わせた的屋らが3人を袋叩きにした。

 

朝鮮人側は即、朝鮮人連盟北見支部に連絡をとり、応援を求めた。

津別町では「朝鮮人が復讐に来る。街を焼き払う」等の噂が流れた。的屋側は全ての露店をたたみ、朝鮮人を迎え撃つ体制を整えた。

夜には、竹槍や棍棒などの凶器を持った朝鮮人約50人が、津別町付近まで接近。津別町は騒然となった。

 

美幌警察署は両者の仲裁に入ったが、なかなか解決には至らなかった。

午後11時頃には、津別町民約300人が集まり、朝鮮人のこれまでの行いを批判していた。

 

午後11時20分頃、朝鮮人側から花火のようなもの上がり、的屋側に落下した。

これを機に両者は激突、津別町民は的屋側に加勢した。乱闘は約30分間続き、朝鮮人側に死者2人・重軽傷者19人、的屋側に軽傷者6人が出た。

警察は計53人を騒擾罪および殺人罪で検挙した。

 

両者の抗争は拡大の様相をみせていたため、警察は進駐軍に連絡。

進駐軍旭川の基地から飛行機4機が出動させ、約2時間に渡り、津別町上空を超低空飛行させた。

両者は恐れをなし、事態は鎮静化した。

 

津別事件は、日本が戦争に負けなければ起きなかった。そして、事態を鎮静化させたのは武力である。

革新のなかには「話し合いで解決」と言う人がいるが、露天を荒らしていた朝鮮人らは話し合いに応じなかった。

歴史上の事実。