素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

【皇紀】2681年9月22日

今日は、坂町事件(さかまちじけん)が起きた日だ。

昭和21年(1946年)9月22日に新潟県岩船郡保内村(現:村上市)で、在日朝鮮人支那人が起こした暴動事件。

 

日本では当時、生活必需品の多くが配給制だった。

大東亜戦争終結直後、兵役からの復員や外地からの引揚げによる人口増加、米軍の空爆による交通網破壊などにより、生活物資が圧倒的に不足していた。

特に人口が増えた都市部での食料難は深刻で、東京や大阪では餓死者もでていた。

 

この様な状況のため、非合法に設けられた独自の市場「ヤミ市」が全国各地に多数できた。

ヤミ市は国民の生活を助けたが、暴力団在日朝鮮人支那人が関わっている場合も多かった。

新潟県北部では、在日本朝鮮人連盟が新発田市に事務所を置いていたこともあり、ヤミ市においては朝鮮人が幅を利かせていた。彼らは坂町駅を中継基地として、大量のヤミ米を関西方面に出荷していた。

 

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坂町駅、令和2年(2020年)12月撮影

昭和21年(1946年)9月22日午前0時50分頃、村上警察署の加藤巡査部長は署長の命により巡査7人を指揮し、坂町駅構内で、ヤミ米輸送の取締りを行っていた。駅のホームには40~50人の朝鮮人支那人がいたが、彼らは一斉に姿をかくした。

加藤巡査部長は、置き去りにされた中身が米の荷物7、8個を発見。待合室にいた人達に誰の荷物か聞いたところ、15人くらいの集団の中から支那人が「俺のものだ!」と名乗り出た。

加藤巡査部長が身分証明書の提示を求めたところ、他の者が「殴れ!」「叩け!」と叫び、これを合図に集団が襲いかかって来た。

加藤巡査部長らが応戦しているとホームに列車が到着し、列車内から朝鮮人20人ほどが下車し集団に加勢した。朝鮮人らは加藤巡査部長らに暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。

 

同日午後、また、ヤミ米を(坂町駅から)運搬しようとしているとの情報が村上警察署に入った。

午後4時頃、河津警部補以下10人の私服警察官が、坂町駅前の丸屋旅館を調査した結果、ヤミ米を発見。

取り締まろうとしたところ、14~15人(約50人との記録もあり)の朝鮮人支那人が襲い掛かってきた。

警察側が攻撃できないことを知ると、彼等は調子に乗り、殴る蹴るの暴行に加え、警察の自動車を破壊したり、警察官の警察手帳をとりあげたりした。河津警部補は連れ去られた。

警察側は検挙はせず、一旦引き上げた。

 

警察は戦後しばらくの間、朝鮮人支那人を逮捕しにくい状況だった。

このため、彼等は日本各地で暴れまわっていた。

 

午後5時過ぎ、進駐軍の新潟軍政部は朝鮮人支那人の取り締まりを許可した。

警察は12人を検挙した。

12人は新潟軍政部に移されたが、新潟県外への追放とヤミ米の買出しをしない旨の誓約書提出だけで全員釈放された。

この事件を新潟日報が報道すると、朝鮮人新潟日報を襲撃した。

 

終戦直後の日本で外国人、特に朝鮮人が起こした事件は多い。

戦争に負けるとは...こういう事だ。