80年前の今日、真珠湾攻撃が行われた。
昭和16年(1941年)12月8日未明(米国時間では12月7日)、大日本帝国海軍がハワイ・真珠湾にあった米国海軍基地および艦隊に対して奇襲攻撃を行った。
真珠湾攻撃での大日本帝国海軍艦隊の航跡、出典:Wikipedia
昭和16年(1941年)11月26日、択捉島中部に位置する単冠湾(ひとかっぷわん)に集結していた大日本帝国海軍機動部隊は、ハワイへ向け出航した。
12月1日までに対米交渉がまとまれば引き返す予定だったが、交渉はまとまらなかった。
12月2日午後5時30分、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」の電文が発信され、指揮官の南雲忠一中将に作戦決行が伝えられた。
真珠湾攻撃前の12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進した。
12月8日午前1時45分頃、この内の1隻が米駆逐艦ワードに米領海内で発見され、国籍不明船として撃沈された。いわゆる「ワード号事件」である。
炎上している真珠湾上空を飛行する「九七式艦上攻撃機」、出典:米国海軍
12月8日午前1時30分、(日本時間)ハワイ近海に接近した大日本帝国海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として計183機が発進した(計189機との説あり)。
午前2時45分には、第二波空中攻撃隊として計171機が発進した。
真珠湾攻撃は主に航空機による攻撃だった。
米軍側の被害は、戦艦8隻のうち4隻が沈み、1隻が横転、残りは損傷。他の艦艇では、軽巡洋艦 3隻が損傷、駆逐艦3隻が横転など。航空機188機が損失、159機が損傷。戦死者は2,334人。
日本側の被害は、航空機29機が損失、74機が損傷。戦死者は64人。
野村吉三郎、来栖三郎両大使が、米国のハル国務長官に最後通牒を手渡したのは、真珠湾攻撃が開始された後だった。
攻撃を受けて沈没する戦艦「アリゾナ」、出典:米国国立公文書記録管理局
12月8日(米国時間では真珠湾攻撃の翌日)、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は、同国両院合同会議で演説を行った。真珠湾攻撃を受けた日を「将来、恥辱として記憶に刻まれるであろう日(恥辱の日)」と表現した。
演説後1時間もかからないうちに、米国議会は対日宣戦布告を公式に承認。米国は正式に第二次世界大戦に参戦することとなった。
日本が対米開戦に踏み切ったのは、餓死するか、奴隷になるか、戦うかという状況にまで追い込まれたからである。
昭和16年(1941年)8月、米国は石油の対日全面禁輸に踏み切った。いわゆる「ABCD包囲網」の完成。日本は石油の約8割を米国から輸入していた。国内での石油貯蓄量は、平時で3年弱、戦時で1年~1年半という状況だった。
11月26日、米国は日本に「ハル・ノート」を突き付ける。支那大陸やインドシナ等からの全面撤兵、日本が戦闘中の国民政府との和解および承認、日独伊三国同盟の事実上の放棄、日本領土の一部放棄などが主な内容だった。
今、同じ状況が起きたら、日本人はどうするだろうか?
この80年間で日本人は、大きく変わったようにも思えるし、全く変わっていないようにも思える。