昭和47年(1972年)2月19日、あさま山荘事件が発生した。
連合赤軍メンバー5人が人質を取り、軽井沢町(長野県)の「浅間山荘」に籠城。
9日後の2月28日、人質は無事救出され、メンバー5人は全員逮捕された。
死者は3人、重軽傷者は27人。
連合赤軍とは、共産主義者同盟赤軍派と日本共産党(革命左派)神奈川県委員会が合流し、昭和47年(1972年)に結成された極左組織。
共産主義者同盟赤軍派は「よど号ハイジャック事件」や銀行強盗など、日本共産党(革命左派)神奈川県委員会は塚田銃砲店襲撃事件などを起こしていたため、結成時には既に警察にマークされていた。
政治思想は毛沢東主義(人民戦争理論)で、目的は共産主義革命。
連合赤軍は昭和47年(1972年)12月から翌年にかけ、仲間12人を殺害する「山岳ベース事件」を起こしていた。事件が発覚するのは後日。
浅間山荘(平成21年)
昭和47年(1972年)2月19日、長野県北佐久郡軽井沢町。
連合赤軍メンバーが警察に追われていた。メンバーのほとんど逮捕されたり、「山岳ベース事件」で殺したりしていたが、5人は捕まっていなかった。
午後3時20分頃、連合赤軍メンバーが銃を乱射。機動隊2人が撃たれて負傷した。
メンバー5人は、河合楽器製作所の保養所「浅間山荘」に逃げ込んだ。中にいたのは管理人の妻一人だけだった。メンバーは管理人の妻を人質に立てこもった。
周囲は警察で囲まれ、事態は膠着状態となった。マスコミも集まってきて、その様子を生中継した。
2月2日正午頃、「文化人」を名乗る民間人の男が現れ、人質の身代わりになる主張。男がメンバーらに近づくと、メンバーは男の頭を狙撃した。
男は3月1日に死亡した。
2月27日11時27分頃、機動隊1人が被弾し、約1時間後に死亡。2人目の死者。
11時55分頃にも、別の機動隊1人が被弾し、約4時間後に死亡した。3人目の死者。
既に、機動隊の何人もの人間が狙撃され負傷していた。
2月27日午後6時頃、機動隊が突入した。この時、隊員の一人が右目を撃たれ失明した。
18時10分、犯人は全員逮捕され、人質は無事解放された。
事件の死者は3人(機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者は27人(機動隊員26名、報道関係者1名)。
機動隊突入の様子
あさま山荘事件はテレビで生中継され、最高視聴率は89.7%に達した。
リアルタイムで見た人は今でも、山荘の壁を破壊する鉄球、カップヌードルを食べる機動隊員...などをイメージする人が多い。
あさま山荘事件では、犯人が頻繁に発砲してくるのに対し、警察は発砲を突入直前まで許されなかった。
警察が即座に発砲できる状態だったら、犠牲者はもっと少なかったかもしれない。いや、事件は起きなかったかもしれない。
一方、連合赤軍メンバーの様子が生中継されることにより、「左翼(極左)は変な人たち」と多くの国民が思ったのも事実である。
事件以降、連合赤軍メンバーのような連中が増えなかったのは、多くの人が犠牲になったからである。
このような事を考えると、筆者はやるせない気持ちになる。